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初めてでもよく分かる、有名な聖句(聖書の言葉)

青年部女子まいですヽ(・ω・ )ノ

聖書の「せ」の字も知らなかったまいさん。

じっとして本を読むのがニガテなまいさん

そんなコマッタさんが、
ひょんなきっかけで
聖書を学ぶはめことに(・・;)

「古文のおとぎ話みたいで退屈だなー」
と思いながらも、
この箇所は心に残ったことを覚えてます。
 

マタイによる福音書13章1~9節
その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
耳のある者は聞くがよい」。

4パターンの、畑に蒔かれた種の話が書かれていますね。
 

(1)道ばたに落ちた種は、鳥に食べられた。

(2)土の薄い石地に落ちた種はすぐ芽を出したが、根がないため枯れた。

(3)いばらの地に落ちた種は、いばらが伸びてふさいだ。

(4)良い地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍にもなった。
 

ただ植物の話だけをしてると思って、
「ふーん」と読み過ごしてはいけません。

“人間のトリセツ”と言われる
聖書だけあって、
実は私たちの人生も
「このようにこうだ」と
教えてくださっているのです

これは、
畑を私たちの心に、
種を福音に喩えた聖句です

 

続けて、その解釈が書かれています。
 

マタイによる福音書13章19~23節
だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

つまり、こういうことですね。
 

(1)道ばたに落ちた種は、鳥に食べられた。
悪者に天国を奪われてしまう人。

(2)土の薄い石地に落ちた種はすぐ芽を出したが、根がないため枯れた。
喜んで御言葉を受け入れるものの、根がないため、困難や迫害につまづいてしまう人。

(3)いばらの地に落ちた種は、いばらが伸びてふさいだ。
御言葉を聞くけれど、世の中の心づかいや富の惑わしによってふさがれ、実を結ばなくなる人。

(4)良い地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍にもなった。
御言葉を悟って、多くのものを得る人。
 

4つともすべて同じ種なのに、
その畑の状態によって
結果が大きく異なります。

このように、
いくらすばらしい御言葉を聞いても、
私たちの心や考えがどうあるかによって、
人生の行く末が決まるということです。

神様の御言葉を
受け入れようとしない精神、
石地のような凝り固まった考え、
雑多な心では、
神様が与えてくださる祝福も
受け取ることができないのですね
 

わかりやすい喩えで、
御言葉を聞き始めた自分にも
ピッタリな話で、
「なるほどなぁ」と納得したものです。

ちなみに当時の私の心の畑は、
今思えばイバラのような地でした

御言葉は喜んで学んでいましたが、
宗教に対する偏見があったし、
享楽も楽しみたい派…

少しずつイバラを刈って、
きちんと成長できるようにしてくださった
神様に感謝です(u_u)
 

いつも、肥沃に耕された善良な心を持っていたいですね
 

HPL(幸せ摂理女性)☆まい

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