神様と聖霊様と御子は大きく二つの方法で行なわれる
[本 文] 使徒行伝9章1~22節
1)さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、
2)ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。
3)ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4)彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5)そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6)さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7)サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8)サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9)彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10)さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11)そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12)彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
13)アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14)そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
15)しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16)わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
17)そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18)するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19)また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20)ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。
21)これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。
22)しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
民数記 22章13~33節
13)明くる朝起きて、バラムはバラクのつかさたちに言った、「あなたがたは国にお帰りなさい。主はわたしがあなたがたと一緒に行くことを、お許しになりません」。
14)モアブのつかさたちは立ってバラクのもとに行って言った、「バラムはわたしたちと一緒に来ることを承知しません」。
15)バラクはまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした。
16)彼らはバラムのところへ行って言った、「チッポルの子バラクはこう申します、『どんな妨げをも顧みず、どうぞわたしのところへおいでください。
17)わたしはあなたを大いに優遇します。そしてあなたがわたしに言われる事はなんでもいたします。どうぞきてわたしのためにこの民をのろってください』」。
18)しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。
19)それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。
20)夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。
21)明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
22)しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、そのしもべふたりも彼と共にいたが、
23)ろばは主の使が、手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑にはいったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。
24)しかるに主の使はまたぶどう畑の間の狭い道に立ちふさがっていた。道の両側には石がきがあった。
25)ろばは主の使を見て、石がきにすり寄り、バラムの足を石がきに押しつけたので、バラムは、また、ろばを打った。
26)主の使はまた先に進んで、狭い所に立ちふさがっていた。そこは右にも左にも、曲る道がなかったので、
27)ろばは主の使を見てバラムの下に伏した。そこでバラムは怒りを発し、つえでろばを打った。
28)すると、主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。
29)バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。
30)ろばはまたバラムに言った、「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。バラムは言った、「いや、しなかった」。
31)このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
32)主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。
33)ろばはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もし、ろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と、御子の愛と平安を祈ります。
神様と聖霊様と御子主が何かの目的を持って人を通して行なう時は、感動を与えて順理的に行なわせ、また私たちがやろうとしていることが神様の御心でなければ、私たちがやることを止めてだめにしてできなくして、神様と聖霊様と御子主の御心を成し、その人が願っていることを、よりよく成就するようにしてくださいます。
‘感動を与えること’と ‘御心でないことはだめにし、止めること’, これが、神様と聖霊様と御子主が「ちょっと待った!」とおっしゃって私たちを支え、助け、働きかける方法です。
大きく「この二とおり」に行なうということを学んで分かってこそ、三位の行なってくださることを誤解せず、不満を感じる状況でも感謝し、疎外感を感じず、むしろ感謝し、感嘆し、三位を一層愛するようになります。
生きる中でみんな経験したでしょう。
神 様と聖霊様と御子主は<死ぬところ>なのに知らずに行くから、感動を与えて行けないようにし、<してはいけないこと>なのに肉性が強くて好きで続けるか ら、感動を与えてできないように止めます。しかし感動を与えても続けてやっていたとおりにするから、<二つ目の方法>で、「天使や人」を通してそのやって いることをだめにし、止めて、うまくいかないようにします。
ある人は、自分がどこかに行こうとしたけれども天が感動を与え、だめにし、止めたら「ああ!何かがあるのだな。何かの事情があるのだな」と思って聞き従い、感謝し、喜んで、行きません。しかしある人は、天がすべてを分かって行かないようにし、行なわないように感動を与え、だめにし、止めたら、自分の肉性で不平を言い、不満を漏らして行(い)ってしまい、行なってしまいます。
そうして害を受けてからは「神様はどうして助けてくださらなかったのだろう」と言います。자自分が行(い)っておいて、やっておいて、神様に対して疎外感を感じます。
神様と聖霊様と御子主は私たちを愛するので、もっと考えて、くださいます。
また「天の御心」に合わせて、「もっとよくしてあげようとして」、自分中心にしていく道と自分中心にして行なうことを事前に分かって、だめにし、止めてくださるということを先に分かって感謝しなければなりません!
三位の前にはいつも「感謝、栄光、喜び、愛」です。
今日の御言葉を聞いて、‘この二つのこと’を分かったから、毎日忘れずに、祈る時もそのようにすると告白し、必ず自分にそのように働きかけてくださいと求めるべきです。
そしてこの二とおりに働きかけてくださったら、すべてを天の前に委ねて、三位を誤解することなく理解し、神様の御心も成して、自分の願いもよりよく成すことを祝福します。
引き上げの復活
[本 文]
ヨハネによる福音書5章24節
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
コリント人への第一の手紙15章50~53節
50) 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
51) ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
52) というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
53) なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
テサロニケ人への第一の手紙4章16~17節
16) すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、
17) それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
使徒行伝1章8節
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日の本文であるヨハネによる福音書5章24節で『よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである』と言いました。
復活とは、「<肉>が神様とメシヤを信じ、その御言葉を聞いて行なうことで、<霊>と共に変化して、死亡圏から生命圏に出てくること」を言います。
つまり
「死んだ死体」が生き返るのではなく、「死亡圏で死んでいた人が、神様が遣わしたメシヤの言葉を聞いて行なって、神様を信じ、愛して、その肉体の考えと行ないと霊魂が生き返ったこと」を指して、「生き返った。復活した」と言います。
今は聖三位の新婦になる復活、すなわちこれ以上ない最先端の復活として<引き上げの復活>を成す時です。
ご飯を炊く時炊き上がるまでするように、
化粧する時最後までするように、
ご飯を食べる時最後まで食べるように、
服を着る時最後まで着るように、
私たちも毎日御言葉を聞いて最後まで行なって「引き上げの生」を生きなければなりません。
私たちが復活しなければならない部分は多いですが、特に自暴自棄から復活すること、性格が復活すること、感謝し三位と主を愛し、喜んで宴会をすることが復活しなければなりません。
復活節である今日、<引き上げの復活の喜び>をくださったことに感謝し喜び、未練なく、後悔なく、神様と聖霊様と御子主に、愛の栄光を帰すことを願います。
休まずに祈りなさい
[本 文]?テサロニケ人への第一の手紙5章17~18節
17)?絶えず祈りなさい。
18)?すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
?
<祈り>は、
「神様と聖霊様と御子主との疎通と交通」であり、
「切実な対話」であり、「願い求め」です。
世の中の何かの仕事をするにも、数時間、数日、数カ月の時間がかかり、
何かを説得するのにも、真剣に説明をしてあげる時間がかかります。
このように、大きなことのために祈ることもそうです。
また、30分、1時間祈るにしても、切実に「深い祈り」をしなければなりません。
<祈り>は本格的に、専念してしなければなりません。
私たちが何かをするとき専念してやってこそ、そのことが一目瞭然でしょう?
そのように<祈り>も、家を建てるように、車を運転して数十里を走るように、勉強するとき没頭してするように、山を登るとき1、2時間行ってはじめて頂上に至るようにしなければなりません。
祈らなければ、心が鈍くて、貴重な日が来ても分からないので、自分を刺す問題、自分を刺す悪い考え、自分を刺す困難について最後まで祈って、解決することを願います。
祈れば、精神的に霊的に力を受け、御言葉を聞いても深く悟って力を受け、その影響で肉的にも力が湧き、聖三位の考えで行うから、栄えるようになります。
今日の御言葉を聞いて、本格的に、専念して、切実に、強力に祈って、その祈りを聞いて、神様が答えてくださる御働きが皆に起きることを祝福します。
知らなければサタンも人サタンも苦しめ、自分が自分に苦痛を与える
[本 文] マルコによる福音書5章36節
36) イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
ルカによる福音書8章50節
50) しかしイエスはこれを聞いて会堂司にむかって言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
神様の歴史を進めるにあたって、サタンはいつも「悪人たち」を使って「悪なる言葉」で私たちを蜂のように刺します。愛してやっても無駄だし、よく接してやっても無駄で、放っておいたら100%刺し、私たちに害を与えます。
ただ御子主を愛すること、御言葉、祈りがサタンと悪人たちに勝つ武器です。悪を、自分を刺す蜂だと思って、<祈>り、<御言葉>を強く認めることで退かせなければなりません。
また、
サタンは「間違った認識観」を握って苦しめます。
本人の間違った認識は本人が解くことはできないので、知っている人が教えてあげなければなりません。だから
命の御言葉を聞いて、「認識」を正しくすれば、悪に打ち勝ち、心配・悩み・憂い・苦痛・困苦から抜け出します。
サタンは詐欺師です。
恐怖を与え、不安がらせ、落胆させ、心配させ、信じられないようにします。
知らなければサタンが苦しめ、知らないから自分が自分に苦痛を与えます。
<知ること>が「光」だから、私たちが正しくはっきり知ったら闇はすぐに退きます。
<義人がする祈りと御言葉>は力があり、神様も聖霊様も御子主もその言葉に力強く働きかけるので、祈ることで、自分の問題をぎゅっと握っているサタンを滅ぼし、自分の考えを主管するサタンを滅ぼし、間違った認識を持たせて落胆させるサタンを滅ぼし、これからの勝利を妨害するサタンを滅ぼすことで、次元を上げていく皆さんになることを祝福します。
聖書を無理矢理に解いて行なう者たちは自ら滅びる
[本 文]?ペテロの第二の手紙3章16節
16)?彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
?
ヨハネの黙示録19章11~16節
11)?またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。?
12)?その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
13)?彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
14)?そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
15)?その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
16)?その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
?
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日の聖書の本文であるペテロの第二の手紙3章16節にあるように、<聖書>を「自分の主観」で解いて行なったら、間違って行なって、自ら滅びるようになります。
イエス様の弟子たちはその当時も<聖書>を無理矢理に解いて生きてはいけないと叫び伝え、いつの時代でも<聖書>を無理矢理に解いて生きてはいけないと記録して、後世がみんな読んで教訓にするようにしました。?
聖書を無理矢理に解いて行なう人とは、
神様と聖霊様と御子主の真理から離れて、「自分の主観」で聖書を解いて行なう人を言います。
聖書は「神様の御心」どおりに解かなければなりません。現実に成されたとおりに解かなければいけないし、無理矢理に解いたことは、歴史が過ぎていっても、聖書が成就しません。
<聖書>だけではなく、<夢>や<万物啓示>も「自分の考え」で、「肉性」で無理矢理に解いて行なったら、「害」になり、「とんちんかんなこと」をするようになります。
<生活>も無理矢理に間違って解いたら自ら滅びるから、何かをするとき、いつも先に祈って行なってこそ、うまくいきます。これが<生活>をよく解く、とても重要なことです。
?
<自分の考え>を間違って解いたら、神様のことも誤解し、主のことも誤解し、御言葉も誤解し、兄弟のことも誤解し、多くのことを誤解して、「とんちんかんな考え」と「とんちんかんなこと」をするようになります。だから<考え>を正しくしなければなりません。
また<相手の心>を無理矢理に解いたら、相手が怒り、気を悪くするから、<相手の心>を順理で解き、神様と聖霊様と主の御心どおりに解いてこそ、栄え、平和です。
?
今日の御言葉を忘れず、ただ、この時代に神様が行なっていらっしゃる御心どおりに生きて、
三位一体が自分にくださった祝福を受けて、栄えて生きることを祝福します。
つながっているものは一つだ
[本 文]?ヨハネによる福音書14章8~11節
8)ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
9)イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
10)わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
11)わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日の聖書の本文を見ると、イエス様が弟子たちに神様について教え、証をし、話をしてあげたら、弟子のピリポはイエス様に神様を見せてくださいと言いました。神様のことを分かったから本当に見たいと言って、見せてくれれば満足し、嬉しいと言いました。
イエス様は神様を見せてくださいと言うピリポに「私を見た人は神様を見たのだ」と言いました。
この一言を信じるか、信じないかによって<救い>が左右され、<運命>が左右されます!
この御言葉を聞いて理解できなかった人たちはイエス様をはなはだしく反対する反対者、悪評者になって「僭越だ。自分を、神でいらっしゃる神様と見なしなさいと言う」と言って早速排斥し、異端視し、迫害しました。
しかしこの御言葉を聞いて理解し信じた人たちは喜び楽しんで、<運命>が「命」に分かれていきました。
<イエス様>は「神様の本体」ではありません。体も違い、肌も違います。しかしどういう意味でイエス様を見たことが神様を見たことだとおっしゃったのか、その立場を悟らなければなりません。
<比喩>を使って話します。
放送局のプログラムは「電波」で送ります。しかし「画面」なしには見ることはできません。
放送局からプログラムを電波で送ったら「画面」を通して見るように、神様は「時代の救い人の肉体」を着て「時代を救う御言葉」を伝播して、<三位>と<三位の行ない>を見るようにさせます。
<イエス様>は新約の時、神様が遣わした人として、神様の御心を成す救い主です。
だから三位一体とつながっているので、私を見た人は神様を見たのだとおっしゃったのです。
このようにつながっているものを一つと見てこそ、「根本」を見るようになり、火がつき、知恵と知識の次元も上げ、霊的な次元も上げ、続けて上がっていき、船に帆をつけた人になって、遠い道を航海する時、数100メートルも先を行きます。
「つながっているものは一つだ」この御言葉の根本を悟ったから、生の中でもこのようだということを分かって、認識と思考を正しくして祝福の人生を生きることを願います。
真理と聖霊 人間と霊の限界
[本 文] ヨハネによる福音書5章24節
よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。
コリント人への第一の手紙15章53節
なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人間が<よい世界>に行くのか、<悪なる悪い暗闇の世界>に行くのかということは、自分の考えと行ないによって左右されます。自分の手で物を作り、環境を作るように、<自分の人生>は自分がどのように考え、行なうかによって、よいものに作られたり、あるいは悪いものに作られたりします。
このように、
人間はそれぞれ作り方次第です。
自分の肉、考え、魂、霊を偉大に永遠に作ることのできる材料は、ただ永遠でいらっしゃる神様と御子と聖霊が
救い人を通してくださった御言葉です。
ヨハネによる福音書5章24節の御言葉のように、全能なる神様を信じるにしても、神様が遣わした救い人の御言葉をはっきり聞いて行なって生きてはじめて、肉も、考えも、魂も、霊も偉大に、永遠に作られて、人生10倍、100倍、1000倍、甲斐に満ちて生きるようになります。
天地と人間を創造なさった三位一体<神様、聖霊様、御子>は、
霊の限界を超えて人間をお救いになり、天地と人間を創造なさった目的を成すために、時代ごとに、その時代にこの世で一番ふさわしい人、この世で三位一体を絶対に愛する人、この世で三位一体を正しく悟って知っている人を選び、その人を教え、その人に<神様の御心と目的を成す御言葉>を与えて伝えさせ、その肉体を通して行なって<救い歴史>を広げます。
<旧約の時>は「モーセの肉体」を着て<その時代に該当する御言葉>を与え、その御言葉をみんなに伝えさせ、モーセを通して神様を信じて救われるようにして、<旧約救い歴史>を成就なさいました。
<新約の時>は「イエス様の肉体」を着て<その時代に該当する御言葉>を与え、その御言葉をみんなに伝えさせました。そうすることでイエス様を「救い人」として信じるようにし、イエス様を通して「神様」を信じて救われるようにして、<新約救い歴史>を成就なさいました。
天地は変わっても「真理の御言葉」は変わらないし、必ず神様の「御言葉」どおりに成されるので、このことを分かって悟ることを願います。
みなさんみんなに<真理と聖霊>が満ちることを祝福します。
分かって行ないなさい
[本 文] 箴言13章12節
望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人間は「忘却の存在」です。
毎日考えなければ忘れてしまいます。
忘れてしまったら何も思い出せず、跡形もなく消えてしまいます。
だから
私たちの<肉体>が、私たちの<考え>が、私たちの<肉の行動>が本当に重要です。
使徒パウロは「望み」についてものすごく多くの御言葉を伝えました。
その時代の人たちが「イエス様」を分からず、従う人たちを続けて迫害し、異端だと言いましたが、そうすることによってイエス様も十字架を背負って亡くなられました。
しかし、イエス様が再び来られるという望み、天国の望み、永遠の命の望みを持って聖徒たちを励まし、ただメシヤを証してイエス様の体になって叫び、伝え、行ないました。
神様とイエス様を信じて、
イエス様が再び来られるという望み、天国の望み、永遠の命の望みがなければ、何の力で信仰生活をし、行なうでしょうか?
私たちは、今や待つ生ではない、
神様の御心と目的を成し遂げ、主と共に生きる生を生きなければなりません。
私たちの原動力は、
ただ神様、ただ主でいらっしゃいます。
このことを分って、完全でいらっしゃる主と一層、一体となり、聖三位を愛しながら、毎日御言葉を考え、祈り、三位と主を呼び、毎日引き上げの生を生きなければなりません。
みんな主の帆を自分の心と考えの中心にしっかりと付けて、霊魂が天の国の形体に変化して天国に行き、肉体もこの世で天国の生を享受して生きることを祝福します。
毎日<考え>を完全にして、サタンと悪に敵対しなさい
[本 文]?ペテロの第一の手紙5章8~9節
8)身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
9)この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
神様が創造なさった<人間の肉体>は、本当に貴く、貴重です。
ところが、人々は「自分のそれぞれの肢体」がどれほど大切なのか、深く分かっていません。もし「肢体のうちの一つ」でも故障して、すぐに使えなくなるとしたら、その時になって初めてどれほど大切なのか、深く悟るようになります。
それでは<肢体全体の核>、何が「それぞれの肢体」を動かすのでしょうか??
まさに「脳」です。
<脳>でする仕事は「考えること」です。肢体全体の機能を統率し、肢体に力も与え、肢体を動かすようにするから、「人間の考え」がそれほどにも貴重です。
<人間の肉体>を創造しても<脳>を創造しても、<考え>がうまくできなければ、<肉の体>も<脳>もすべて無用の長物です。だから、<自分の考え>に問題が起こらないように、毎日点検しなければなりません。
人間は<考え>が「核」です。人間は<考え>によって<行動>するようになり、<その行ない>によって<生(せい)>が左右され、<肉体の生>によって<霊の運命>が左右されるからです。
<考え>がぼやけたら、「サタン・悪魔・雑な考え」が入ってきて、害を受けるようになるから、いつも<自分の考え>がぼやけないように口で指示し、主の御言葉を忘れずに考え、いつも祈って、<三位と主の考えと主観>をはっきりと持って、行なわなければなりません。
みんな自分の考えを主管し、治め、考えでサタンと雑念を退けて勝利する最高の生を生きることを祝福します。
<言葉の御力>を受けなさい。<考え>について悟りなさい。<考え>は「神」だ。
[本 文] 箴言4章23節
油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。
マタイによる福音書22章37~40節
37)イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
38)これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39)第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40)これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
<行動>で直接見せることの次に
よく理解できる伝達手段は<言葉>です。
<言葉>で聞いたら、それでも耳をそばだてて、胸に伝わってきます。だから<言葉>を話すとき、実感が湧くようにし、熱くし、内容によって強くしたり、普通にしたり、弱くしたり、調節をしながらしなければなりません。
<言葉の御力>を受けたら、<言葉>で「城」も倒し、「地震」も起こし、「台風」も吹かせ、「雨」も降らせます。
<言葉の御力、神様の御力>を受けた人が話すから、神様が「万物」に命じて、行なってくださるからそうです。
エリヤは<神様の御力>を受けて、「雨」が降らないようにしました。その時代のアハブ王は、ありとあらゆる悪行を犯して偶像崇拝をしました。それで神様の預言者エリヤは「私が仕えるイスラエルの神様エホバが生きていらっしゃることにかけて誓うが、私の言葉がなければ、数年間『雨』も『露(つゆ)』もないだろう」と言いました。本当にその言葉どおりになって、その当時、イスラエルは甚だしい旱魃にさいなまれました。
その後エリヤはカルメル山で神様に祭壇を築いて、火で答えてもらい、偶像崇拝をする偽預言者850人を退かせました。その後、エリヤが言ったとおりに再び「雨」が降りました。神様の御働きでした。
これから考えについて御言葉を伝えます。
<人間の形象の核>は「肉体」です。この
<肉体>は「考え」をもって動きます。<人間の根本の核>は「考え」です。だから人間は「考え」を本当にちゃんとしなければなりません。
<考え>によって<行動>するようになり、その<行動>によって<肉の生>が左右され、その
<肉の行ない>によって<霊魂>が作られ変化して<霊魂の運命>を左右するようになります。だから<肉界と霊界の核、原子爆弾>は「考え」です。
霊‐魂‐肉の媒介の役割をする、霊‐魂‐肉の核は「考え」です。<考え>が「肉」を行なうようにさせ、<考え>が「魂」を行なうようにさせ、それによって「霊」と繋がって、「霊」が変化するようにします。だから<考え>が「神」にならなければなりません。
神である「神様の御言葉、神様の考え」を受けて、その御言葉どおりに、その考えどおりに生きれば、人間として神になって、神のように生きることができます。考えを集中すればするほど、神の考えになって治めるようになるから、事故が起こりません。
事故が起こらないようにするためには、どんなことをするにしても、精神と考えを集中して全能者三位と一体にならなければなりません。
いつも考えを集中して、三位の考えを自分の中心に挿して生き、次元の高い信仰の生を生きることを祝福します。
他の道があるから、縛られるな
[本 文]?詩篇23章1~2節
1)主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
2)主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人は生きて行くうちに、いくら熱心に頑張っても、「自分のすべきこと」でミスを犯して、自分を恨み、嘆き、諦め、そのことで自分の首をしめる人たちが多いです。この時、自分がミスを犯してできなかったことを考えて、嘆き、落胆ばかりしていてはいけません。
<三位一体が用意した他の道、他に行なう道>があります。
だから必ずすべきことができなかったと言って諦めないで、機会を逃したと言ってそのことに縛られないで、気を引き締めて祈って、早く<他の道>を見つければ良いです。
神様と聖霊様と御子主は私たちがミスを犯してもこのように助けてくださり、<葬式をする家>になるところを<宴会をする家>になるように、奇跡的に働きかけてくださいます。個人も、家庭も、民族も、みんなそのようにしてくださるから、このことを悟って、神様と聖霊様と御子主に感謝し、愛していると言い、落胆してはいけません。
この御言葉を忘れたら、自分の無知で100%できなくてミスを犯したことを<他の道>で解決できず、縛られ、やきもきして終わるようになります。そうしたら損になり、恨(ハン)になり、苦しくて、喜びがありません。
今日の御言葉を聞いて、自分が計画したこと、自分がすべきことが自分のミスによって機会を逃したと言って、縛られず、<三位一体が用意した別の道、別に行なう道>があるから、気を引き締めて祈って、早く<別の道>を見つけ、<その道>で行なって、神様、聖霊様、御子主と共に喜びで宴会をすることを祝福します。
神様と聖霊様と御子は、「人間との経緯がある所」に歴史を広げる
[本 文]創世記22章2節
神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
イザヤ書45章23節
わたしは自分をさして誓った、わたしの口から出た正しい言葉は帰ることがない、『すべてのひざはわが前にかがみ、すべての舌は誓いをたてる』。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人々は<経緯のある所>に家を建て、土地も買い、<経緯がある人>と愛し合い、結婚して一緒に暮らします。
全能なる神様と聖霊様と御子主もそうです。<経緯と御心がある所>に「目的を構想」なさり、<神様と経緯がある人>の肉体を着て行なわれます。
聖書の歴史を見ると、アブラハムは<モリヤの山>で、「息子のイサク」を神様の前に燔祭として捧げようとしました。これは「神様に対するアブラハムの絶対信仰と従順」であり、神様は「アブラハムの絶対信仰」を受け取りました。そしてその子孫である「ソロモン王」を通して、<アブラハムの絶対信仰と従順の経緯があるその場所>に、「神様の聖殿」を建てるようにさせました。
またヤコブが神様の祝福を受けて、伯父の家に行く途中、<石の祭壇を築いて、神様の前に祈っている時、天の門が開かれ、天使たちが上(のぼ)り下(くだ)りした場所>があります。
<経緯のあるこの場所>には「ベテル教会」が建てられました。そこは神様を愛して神様に礼拝を捧げる場所になって、<経緯の歴史>を広げていくようになりました。
新約の時「メシヤ、イエス様」を中心にして、<神様と聖霊様と御子主との経緯がある所>に福音をのべ伝え、歴史を広げていき、聖殿も建てて、そこで子孫たちが神様に仕え、栄光を帰して生きました。
このように全能なる神様と聖霊様と御子主が<経緯がある所>に、<三位が愛する人>と<その人に従う人たち>と共に、<経緯の歴史>を必ずお作りになります。
過去、泣き叫んで神様を探した経緯、真理を探し、正しい道を見つけるために願い求めた経緯、
天を見上げて、神様がいらっしゃると信じて生きていた経緯、先祖や親が子孫や子供が栄えることを願っていた経緯、イエス様を信じて愛して生きていた経緯、世の中で生きて「いいものを食べ、いい暮らしをし、いい学校といい職場に行けば人生の目的を成したことなのか?」と考えて、「人生の虚無」を感じて神を探した経緯など、神様は<経緯がある人>を選んで、神様の歴史に呼んできます。
今日の御言葉を聞いて、「経緯」を忘れるとか、考えず、「価値」を分からずに生きたら、自分の道に行くようになるから、みんな<過ぎた日の経緯、天と結んだ縁の経緯>を忘れないことを願います。
分からないから、三位一体が働きかけてくださっても、普通のことと思って、やり過ごす。分からないから、助けても、残念がり、不平を言う。
[本 文]?詩編106篇1節
主をほめたたえよ。主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
テサロニケ人への第一の手紙5章18節
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
大半の人たちは、三位一体が愛してその都度大なり小なり働きかけてあげたら、「偶然か?気候の変化か?私の錯覚か?こんな時もあるし、あんな時もある」と言って、そのままやり過ごしてしまいます。
三位一体は<万物>によっても啓示し、<人>を通しても啓示を与えて助けます。
しかし人々は<万物啓示>をもらっても、「万物をたくさん見ているから、私が想像したものが見えるなあ」と言ったり、三位が<人>を通して働きかけて助けても、「たまたま脳に浮かんだ人と会うようになった。偶然の一致だ」と言ったりもします。
しかし<万物>や<人>を見せて悟らせてあげることまでする神様と聖霊と御子の働きです。
だからいつも「全能者」を認識し、考えなければけません。
いつも<考え>において忘れず考えてこそ、三位が「万物」や「人」を通して助けても分かるし、呼んでも分かるし、啓示してあげても分かるようになります。
神様は私たちを「炎のような目」で顧みるから、それによって神様が働きかけなくてもしるしが起こる時もあるのです。また「使役者」を通して行なって、しるしを起こし、随時祝福を受けるようにしてあげて、しるしが起こるようにしてあげることもします。また、本人が努力するから、<公義の法>に従って、本人の労苦と努力によって得させることもされます。
もうこのことを分かったから、鈍くてその時すぐに悟れずに、全部終わってから感謝するのではなく、神様と聖霊様と御子が愛してくださり、しるしを起こしてくださり、助けてくださり、働きかけてくださる時、その時!すぐに!悟って、感謝し、喜び、その時!全部話す人生となることを祝福します。
互いに愛してこそ引き上げだ。救いだ。
[本 文] マタイによる福音書24章13節
13. しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
ローマ人への手紙10章13~15節
13. なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
14. しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
15. つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
ヤコブの手紙2章26節
26. 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は<救いと引き上げ>はどのように成すのか話します。
<救いと引き上げ>は「愛」と同じです。
一人の男と一人の女がいるとしましょう。男だけが女を愛して、女は男を愛さなければ、一緒に暮らせず、愛を成すことができません。
これと同じく、<神様、聖霊様、御子主>がいくら愛してあげ、救ってあげ、引き上げさせてあげても、<本人>が願わず、愛さなければ、地上で肉ででも、天国で霊ででも一緒に暮らせません。
<救いと引き上げ>は一緒にしてこそ成せます。
自分だけが好きだからといって愛せるわけではないし、一緒に暮らすことはできないように、救いと引き上げもそうです。
<救う側>が好きで、救ってあげても、<救われる側>が願わないから、一緒に暮らせません。
<救われる人>も「一緒に」救われることを願い、救われるために行なって喜んではじめて、救われ、一緒に暮らすようになります。
神様を信じ、救い人を信じて信仰生活をしていたのに、世の中に行って信仰が破船する人たちが多いです。
なぜでしょうか?
救われて一緒に暮らしていたのに、「救いの生活」をしないから、そこで「信仰の生、救いの生」が途絶えるようになったのです。
<愛>もしていたのにしなければ、その日から「愛の生」が途絶えるように、冬、お湯を沸かしても、続けて沸かさなければ、その時から冷めて、結局「冷たい水」になるように、<救い>も、<引き上げ>も、<愛>も、続けてその生を生きなければ、結局冷めて冷たい水になるようになります。
<愛>も、<救い>も、<引き上げ>も、「生活」です。「生」です。
だから愛の生、救いの生、引き上げの生を生きなければ、その時からはちょうど「ご飯を食べないこと、息をしないこと」と同じで、<眠る生、死んだ生>になって、それ以上 「愛と救いと引き上げの機能」を果たせなくなります。
毎日行なってその生を生きる人だけが、救いも、愛も、引き上げも「保障」です。
<木の根っこ>が自体的に水と肥料を吸い上げるように、<本人>が「救いと引き上げと愛の生」を生きて、毎日行なわなければなりません。
神様は地球世界のすべての人が救われて天国に来ることを予定しておきました。
そして福音を伝える人を送って教えてあげ、自分の良心でも、自分自らも悟るようにしました。
その時、自分が救われ、引き上げられることを望み、信じ、その生を生きて行なえば、<救いと引き上げの道>に行き、<神様の予定>を成すようになります。自分の行ないどおりです。
今日の御言葉を聞いて、<救いと引き上げ>は「愛」と同じで、互いに愛し合ってこそ愛が成されるように、互いに愛し合い、互いに願い、行なってこそ、救いも引き上げも成されるから、<救われる人、本人>が救われ、引き上げられることを願い、聖三位と主を愛し、その御言葉を行ない、いつも祈って交通して、そのように同じ生を生きることで、救いと引き上げを成す皆さんになることを祝福します。
愛を見て選択し、お選びになる。
[本文] マタイによる福音書22章37-40節
37)イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
38)これがいちばん大切な、第一のいましめである。
39)第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
40)これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
全能なる神様と聖霊様と御子は<人>を選ぶとき、『どういうことを核』として見てお選びになるでしょうか?いつの時代の誰でも
『愛』を見てお選びになります。
<愛の資本と材料>は「心と考え」から出てきます。
誰でも「愛を起こす心と考え」があるから、神様の前で公平です。
また、誰でも「愛を起こす心と考え」があるから、「私は無学でできない。私は不細工でできない。私は身長が低くてできない。私はお金がなくてできない」と言って、神様の前でどこの誰も言い訳をすることはできません。
神様は知識、容姿、身長、学歴、お金、名誉を見て選ぶことはなさいません。
<愛>を
「核」としてご覧になり、
愛一つを見てお選びになります。
<愛>が「核」であり、「目的」です。
<畑に隠された宝>を見て「畑」を買うように、神様は<愛>を見て「その人という人生の土地」をお買いになります。
変わらない愛、偽りのない真実な愛、霊的な愛、騙さない愛、裏切らない愛、どんな状況においても背を向けない愛、初めの心そのままの愛… 神様はこのような愛を見て、人を選んでお使いになるから、みんなこの御言葉を悟って、そのような愛をすることを祝福します!
神様は<祝福>も<使命>も「愛」を見て、くださいます。「愛」を見てお選びになる神様についておっしゃったから、この御言葉を自分のものにして、<三位一体>を真実に愛して生きる皆さんになることを祝福’します。
雑念を治めて、考え、魂、霊を使いなさい
[本 文] テサロニケ人への第一の手紙5章23節
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
祈る時、すぐに深い祈りができず、<雑念>が浮かんだりもするでしょう。人は何かを見て聞いて集中する時は<雑念、雑な考え>が浮かびませんが、目をつぶって静かに祈る時は<いろいろな雑な考え>が浮かんできます。脳の機能上そうなのです。
神様は私たちに<神になって生きる方法>をくださいました。
最高級の自動車や専用機より一億万倍ももっといいもの、それは!「光」より400億万倍もっと速い<自分の魂と霊>です。これは誰もがみんな持っているものです。
??
みなさんはほとんど<スマートフォン>を使っているでしょう?<スマートフォン>は、名前どおりに本当にスマート(賢い)です。その小さいスマートフォンが「コンピューターの役割」をほとんどします。しかしそれよりもっとスマートなものがありまが、すなわち<脳のスマートフォン>です。<脳のスマートフォン>は、スマートフォンより数百万倍もっと性能がいいです。
それで今日は<雑念>を治め、神のような<考え・魂・霊>を使いなさいという御言葉を伝えます。
祈る時<雑念>が浮かんだら、早速考えで「切ろう!」と判断して、瘤(こぶ)を切り取るように、ちょん切ってしまわなければなりません。<脳>で「雑念」が浮かんできますが、放っておいたら続けて次々と「雑な考え」をするようになります。だから祈る時は「口」に出してはっきりと言いながら祈り、神様と聖霊様と御子に切実に願い求めなければなりません。そうすれば<けがらわしい雑念>がだんだんと糸のように細くなって、結局は浮かばなくなります。
祈らなくても、昼、仕事の途中、また勉強の途中、目をつぶってじっとしていたら、脳で「雑念」が浮かんできます。じっとしていたら「あんな考え、こんな考え」がどんどん浮かんできます。その時も「この雑な野郎!」と言って「言葉」で追い出したら、<脳神経>は「考えていたこと」をすぐに切ってしまいます。
?
<脳>はいつも作動し、考えます。だから<考え>を集中してこそ、自分が集中する一つのことだけを中心にするようになり、雑な考えが消えるようになります。
これから二つ目に、<魂と霊を使う方法>について話します。
<自分の魂と霊>は「自分の肉の恋人」と同じです。「私は小さい自動車の一つもない」と言って人生を嘆かないで、神様がくださった<魂と霊>を使ってください!高級自動車、専用機がなくても、神様がくださった<魂と霊>を使えば、<魂と霊>は専用機100台よりもっと速く行(い)って行ないます。
?
<自分の魂と霊>を自分の恋人のように使ってこそ最先端の知恵と考えで生きるようになります。また、<神様、聖霊様、御子>も毎日呼んで、すべてにおいていつも交通し、愛して生きることを願います。そうしてこそ、肉・魂・霊が最先端に生き、瑕なく喜びで生きるようになります。
?
神様が人間と通じて愛して生きようと人間を創造されましたが、<通じる脳の線>を核として作られました。だから<肉>だけを使って生きるのではなく、全能で神秘的な絶対者、神様がお作りになった<脳のスマートフォン>と<魂と霊>を使うことを願います!
肉が使う<機械のスマートフォン>では、神様と聖霊様と御子と通じないから、<脳の考え、自分の魂と霊>を恋人のように使って、毎日神様と聖霊様と御子と通じることです。
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今日、肉と魂と霊が貴重な御言葉を聞いたから、雑念を治めて、考えと魂と霊を一生使う皆さんになり、天といつも交通し、万事栄えることを祝福します。
<現在>が<結局>を決定する
[本 文] テモテへの第一の手紙?6章17-19節
17)この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、
18)また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、
19)こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。.
人間は<現在>苦労しても<結局>がよくてこそ、
将来、希望があって、喜んで生きるようになります。
しかし人々は<現在>だけを考えて生きるから、すでに「希望のない生」を決定づけて生きている有様です。<現在>取りあえず楽でいいからといって、楽なとおりに好きなとおりにばかり生きたら、<結局>は苦痛の中であえいで生きなければなりません。
<現在>大変でも「完全な生、未来に向けての生」を生きれば、<現在>においては大変ではあるけれども、それによって<現在>においても得て享受して生きるし、その生によって<結局>においても得て享受して喜びで生きるようになります。
ちょうど<現在>は苦労でも、土地を開墾し、種を蒔いて、続けて育てたら、花が咲き、実がなってだんだんと大きくなり、実が完全に大きくなったら、そのときは刈り取って食べて、<結局>「理想的な生」を生きるようになります。
万事これと同じくこうです。
<現在>において自分を開発して作り、「自分を完全に直す生」を生きなければなりません。
人間ならば誰もが迎えるようになる<未来>です。<現在>がいくら楽で華やかでも、<未来>がなければ、人生に失敗したのであり、間違って生きたのです。だから<未来の望みと希望>のために生きることを願います。その努力と労苦は必ず得る努力と労苦です。
<現在の生>が<結局>を決定し、<結局>をもって「永遠な生」が決定され、その生が永遠に持続すると御言葉を伝えたから、今日の御言葉を聞いて、<未来の望みと希望>のために汗を流し労苦する自分に自ら拍手を送り、兄弟同士が互いに励まし合って、楽しく摂理道を行くことを願います。
罪の代価は死だ。悔い改めさせて平和になさった神様
[本 文] ローマ人への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は韓国の固有の節句であり、一番の節句である「中秋」です。
<中秋>は1年間の農作をすべて終えて、収穫したものをもって家族と共に分かち合い、先祖たちに感謝する日です。
最高によいこの季節に迎える中秋、私たちは自然万物と天地を創造なさった神様と聖霊様と御子に感謝し、栄光を帰する節句として過ごさなければなりません。そして地上では、離れて過ごしていた親兄弟と会ってそれまでの経緯を分かち合い、仲むつまじく宴会の日として過ごすことを願います。
今日の御言葉を伝えます。
いつもきたないものを掃除してこそ、病気なしに暮らすことができます。家の中にごみが溜まっていたら、捨てて、汚い汚物は掃除をしてきれいにして、人間の体の中にある排泄物も排泄してしまわなければなりません。そうしなければ、それによって自分ばかりが苦痛を受けるようになります。
<罪>もそうです。
いつも<罪>の代価として様々な苦痛や裁きを受けるから、<罪>は「悔い改め」でなくさなければなりません。<罪の代価>は ‘死’です。だから毎日悔い改めてこそ、「罪によって受ける苦痛」を受けなくなります。
韓国は「全世界で唯一の分断国家」です。いつも「戦争の危険」が内在している国だから、「民族」のために祈らなければなりません。<民族の運命>はすなわち<自分の運命>です。
戦争を経験したことのある人だけが戦争の恐怖を骨身にしみるほど分かります。<戦争が起ころうとする時>と<戦争が起こった時>とは、状況が違います。戦争が起こったら、その時は100%状況が変わり、気が動転して、その時にはじめて恐れの中で神様を呼び求めます。
戦争が起こったらすべての秩序は壊れて修羅場になり、電気と水道が途絶えて生活ができないし、互いに不信し自分だけが助かろうとするし、一瞬にして犯罪の世界に変わって、略奪し、強姦し、食料が底をついて飢えにあえぐし、すべての道路と交通手段が途絶えて足止めされるし、お金は無用のものになって使えないし、ただ命だけでも助かるためにネズミの穴でもあれば入って自分の身を隠そうとします。
一度戦争が起こったらすぐには終わりません。なぜでしょう?
相手がみんな死ぬか屈服してはじめて終わるからです。戦争が起こったら一万倍害を受け、戦争が起こらなければ一万倍楽に生きられるから、いつも「自分の罪、民族の罪」のために悔い改めなければなりません。
みんな御言葉を聞いて分かったから、今年の中秋は特に聖三位に感謝し、聖三位を愛して過ごすことを願います!
たくさんもらって、たくさん享受しなさい
[本 文]マルコによる福音書9章23節
もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は、どのようにしてこそ神様と聖霊様と御子がこの時代に施してくださるものをたくさんもらって、たくさん享受して、甲斐に満ちて生きるのかについて話します。
人は知らなければ得られず、享受できません。
だから一つ、学んで正しく知らなければなりません。
二つ、学んだなら、誰でも心を尽くして行なわなければなりません。
そうしてこそ肉的にも霊的にも得て、享受し、変化し、喜んで生きるようになります。
三つ、この時代の命たちに福音を、知恵をもって伝えて、聖三位の前に戻ってくるようにさせなければなりません。
四つ、聖三位に感謝し、何よりも誰よりも聖三位を愛して平和に生きなければなりません。
このようにすれば、たくさん得て、たくさん享受して、たくさん成し遂げ、肉も霊も甲斐に満ちた歴史を享受して生きるようになります。
今年がそれほど残っていません。まず<自己管理>を徹底的にして自分を守り、その次に<命を伝道>して教えて、管理をしながら、神様に栄光を帰すことを願います。
三位一体はその御言葉どおりに行なう人に必ず働きかけるから、御言葉通りに行って<聖三位が下さる知恵と知識と能力>を受け、たくさんもらって、たくさん享受する生を生きることを祈ります。
やらなければ、忘れてしまう
[本 文]ヤコブの手紙2章14節、17節
14 )わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
17)信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人は自分がよくできていたことも、よいことも、信仰においてすべきことも、やらなければ忘れてしまいます。<上手に描いていた絵>もやらなければ忘れてうまく描けないし、<覚えていたこと>も考えなければ忘れてしまうでしょう?このように<よくできていたこと>だとしても、やらなければ忘れてしまい、実力が落ち、感覚が鈍くなります。
そうしていて、全く忘れてしまい、思い出すことすらできません。忘れないためには毎日やらなければなりません。これが「生」であり、「生活」であり、生は連続です。
毎日行なう人が強いです!毎日行なう人が上手にできるようになります!毎日行なえば<よくできていたこと>も忘れないし、<覚えていたこと>も忘れないし、<感覚と実力>ももっと上がります。
<信仰生活>もそうです。
毎日すべきであって、途中でやめて、やめてから、またやろうとしたら、感覚も、感じることも弱くなって駄目です。だからできないと言って諦めるのです。
毎日行なう生です。
神様と聖霊様と御子と毎日真実に交通、毎日真実に愛です。毎日三位と一緒に、毎日神様の御心どおりに行なって、徐々に「より高い次元、より理想的な次元」に上がるのです。
<体>も見てください。
毎日運動し管理したら、もっと丈夫になり、「もっと高い次元のこと」を行なうようになります。亜鈴(あれい)一つを持ちあげるにしても、毎日持ち上げたら腕の筋力が強くなり、その時からは「もっと重い物」も持てるようになります。
走ることもそうです。
毎日走らなければ、300メートル走るだけでも息が切れますが、毎日走れば、2000メートルも簡単に走り、それよりもっと遠い距離も走るようになります。このように<人間の脳>と<考え>と<体>はもっと理想的なことのために毎日行なえば行なうほどもっと発展します。
<行ない>もそうです。
階段を上がるように、とりあえず「最初の段階」を行なえば、その段階で変化を成し、そこで「もっとよく行なうべきこと」が見えます。それをまた行なえば「もっとよいもの」を得るようになり、行なったところから次の位置に発展します。
今日の御言葉を聞いて、自分が<もっと理想的にしようとする心>を持ち、毎日もっと次元を上げてもっと行なって、たくさん得て、たくさん享受する皆さんになることを祝福します。
もう少しだけやれば運命が変わる。 もう少しだけやれば問題が答えに変わる。 もう少しだけやれば違った世界だ。
[本 文]マタイによる福音書25章21節
あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。
ヤコブの手紙2章24節
人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
オリンピックの時、100メートル走で<金メダルを取った人>と<銀メダルを取った人>の差を見ると、30cmの差で勝ち、指尺(ゆびしゃく)一つ分の差で勝ち、ある時は足を前へぐんと突き出して先に決勝点を越えて、2等と0.1秒の差もなく勝って1等になることもあります。
このように<熱心に走ってよくできる人たち>と<できない人たち>の差も‘少し’です。また、目・鼻・口が大きい人は、普通の人よりもう少し大きいです。ところが‘この少しの差’がものすごく大きく見えます。
顔もそうです。顔が大きいからといって「二倍」大きいのではなく、<顔が大きい人>と<顔の小さい人>との差は実際に両側1 cmの違いでした。それなのに、見た目にはものすごく大きく見えました。
踊るときも「もう少し」動けば、動作が大きく見え、もっと上手に見えます。腰をまっすぐに立てたらもう少し大きく見え、姿勢がいいから体がまっすぐに見え、自信に満ちているように見えます。
少し少なくやって、目障りで、できない人、怠ける人に見えるようになり、もう少しやって、目に留まり、よくできる人、勤勉な人に見えるようになります。
たくさん行なって、たくさん得て、たくさん享受しなさいと言ったでしょう?<毎日もう少し行なう人>が、結局たくさん得て、たくさん享受するようになります。
従ってもう少し行ない、もう少し努力し、もう少し熱を上げたら、<運命>が変わり、問題が<答え>になり、<違った世界>になります。
<もう少しよくできる能力>は誰にでもあります。やれば!その能力が「自分の体と考え」から出てきます。自分に「よくできる材料」があるのに、やらなくて、運命がよくないほうに傾くようにしています。
人が「たくさん」頑張ってのみ運命が変わるのではなく、「少しだけ」頑張れば死ぬはずの人も助かり、<黄金の信仰>になります。
よく人々は「あの人も私も同じく熱心に頑張ったのに、どうしてあの人はうまくいき、私は駄目なのか?」と言います。うまくいった人は「一つ」でももっと行なったからです。
人はもう少し努力し、行なって、成功し、苦労せず希望で生きるし、もう少し努力せず、行なわなくて、大変な思いをし、苦労して生きていきます。<肉の生>もそうだし、<信仰の生>もそうです。
たくさんしようとするなら、少しずつもっとやればいいです。もう少しやっているうちにたくさんやるようになります。
もう少しやることがどれほど重要なのか、みんな御言葉をしっかり理解しましたね?もう少しだけやれば<運命>が変わり、問題が<答え>に変わり、違った世界になるから、もう少し努力し、行ないつつ、最善を尽くすことを願います。
聖霊の言葉を聞いて、早く引き返して行ないなさい
[本 文] ヨハネによる福音書16章13節
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
コリント人への第一の手紙2章13節
この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人は<自分>をもって「自分」を成功させますが、<自分>をもって「自分」を成功させるためには、<考え>がとても重要です。<考え>を「霊的」にするか、「肉的」にするかによって、自分の運命が左右されます。
<肉的なこと>は「肉」をもって食べて、着て、寝て、世の中の物質と名誉などを得ることです。肉的に考えて肉的に行なえば、肉的には得ますが、<肉の成功>は「肉体の一時(いっとき)」です。
霊的に考えて霊的に行なえば、霊的に得ます。<霊の成功>は「期限のない永遠な成功」です。<霊的なこと>は「神霊な心と考え」を中心にして、「自分の肉」をもって「霊的な信仰の仕事」を行なって、永遠なものを得ることです。
肉的なことも、もちろんこれもしなければなりませんが、<霊的なこと>を必ずしなければなりません。その都度「もっと急ぐことをすること」が成功の秘法です。とりあえず体に当たる石や茨(いばら)をよけるように、「先にすべきことを先にすること」です。
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今みなさんの生活の中に<優先権で必ずすべきこと>があるのに、自分の仕事ばかりしていることがあります。
まずは「天」のために行ない、その次に「自分」のために行なわなければなりません。行なう時は、まず確認して行なうことです。
この世でも霊的にも、毎日数百件、数千件の事故が起こります。この事故から<自分を守る方法>がありますが、運転をするとき前後左右を見て、信号とスピードを守って気をつけてするように、毎日慎(つつし)んで生きたら、肉的にも霊的にも「不慮のこと」に見舞われません。
また、自分が慎んで行なっても、「他人のミス」で不慮のことに見舞われることもあるから、必ず祈って、守ってくださいと言ってこそ、「不慮のこと」を避けるようになります。御言葉どおりに行なって「自分」を守ることを願います。
また行なう時、各方面から100%確認して、うまくいっても安心せず、いつもその方面において慎み、100%心血を注いで行なう人だけがやられなくなります。
日が昇って暮れるまで、「3万6000」を数えたら一日の日が沈むから、一日が一瞬にして過ぎていきます。一日一日がたまって、結局「人生」を作るのに、この時間をちゃんと使えなければ、あまりにももったいないです。
3万6000を数える時間に必ず<自分>を守り、<命>を伝道してください。うまくできればペテロのように3000人を伝道し、やらなければ、一人もできません。ある人は「本当にペテロが一日に3000人を伝道しただろうか?」と言って不思議がります。どうしてでしょうか? やったことがないからです。
「神様の主管圏の中で何事でもやればできるし、やらなければできることがありません」
「今も現実でやればできるし、やらなければできることがない」ということを肝に銘じて、今、聖霊が感動と悟りで働かれる時、早く引き返して行なう皆さんになることを祝福します。
罪は悔い改めでのみ解決できる
[本 文] マタイによる福音書9章13節
わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。
ローマ人への手紙6章23節
罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は「罪の悔い改め」がどれほどいいことか、<罪>を犯したら、よごれた体を洗い、よごれた服を洗うように、すぐに「悔い改め」なさいという御言葉を伝えます。
人間も毎日「きたないごみ」を捨てる裁きをするでしょう?きたないごみを片付けなければ、それによって病気が来るし、害を受けるようになります。これと同じく、神様もそのようになさいます。神様は「悪人と罪人(つみびと)」をお裁きになり、そうすることできれいになさいます。
<罪が大きいか小さいか>が問題ではなく、<悔い改め>が問題です。だから神様は「罪を犯したか、犯していないか」より、「罪を悔い改めたか、悔い改めていないか」をご覧になります。
<罪>はそのままにしておいたら「病気」のようにどんどん広がっていき、「神様」から遠ざかるようにし、「祝福」を止めてしまい、「自分の運命」を変えてしまいます。
<罪>について分かってこそ、<悔い改め>をちゃんとするようになります。知らなければ、行なわないか、いい加減にするようになり、いい加減に大ざっぱにやったら、悔い改めても「罪」が残っています。神様が許してくださることばかりを望むのではなく、自分自身が真実に「悔い改め」なければなりません。そうしてこそ「許し」を得られます。
<罪>について「本当に重要なこと」を教えてあげます。
腐ったら、永遠に終わってしまい、死んだら、永遠に終わってしまいます。それならば、どうして腐って終わってしまうでしょうか?神様が<罪>と規定しておいたから腐るのではありません。<存在の法>を外れたら、物質でも人間でも腐ります。
<果物>を見てください。腐ると規定しておいて腐るのではなく、自体的に変質したら、どこででも腐っていきます。また、医学的に病気だと規定して病気になるのではなく、自分が「死ぬ病気」にかかっているけれど、それが医学的に規定されていない病気だとしましょう。だからといって、「病気」ではないと考えて、毎日喜んで宴会をして生きるなら、その人は結局「病気」で苦痛を受けているうちに死ぬことになります。
このように、神様が<罪>と規定していなくても罪を犯したら腐ります。<罪の特徴>は「腐ること」です。だから誰でも<罪>を犯したら、腐って永遠に終わってしまいます。
医学で<病気>と規定されていなくても、病気にかかったら死ぬから必ず手術をし、治療しなければならないように、自分が、あるいは世の中が<罪>と規定していなくても、罪は罪です。
<罪>のせいで苦痛を受け、死ぬから<罪>は必ず悔い改めて、なくさなければなりません。
<神様の法>は「羊を守る柵」と同じです。
それなのに羊が「私はここがうっとうしい。嫌だ! 牧者の導きから離れたい。私一人で柵の外に出て行って自由に行動する」と言って柵から出たら、確かめるまでもなく、狼や野獣たちに食い殺されてしまいます。<神様の法>は「自分を守る柵」であり、「生命圏」です。
<罪と悔い改め>について比喩を使って説明をします。
スピードの限界を超えて車を運転することが<罪>なら、自分の行為を悔い改めて、やめると言ってすぐにスピードを下げることが<悔い改め>です。
神様の法を外れて線を超えて行なうことが<罪>であり、神様の法を分かって自分の行為を悔い改め、「言葉」でもやらないと言い、「行動」でも早速その行為をしないことが<悔い改め>です。
<罪>は溜めておけばおくほど害になるから、<罪>を犯したら「ただちに悔い改め」「恐ろしいほど悔い改め」なければなりません。
イエス様は『私は義人を呼ぶために来たのではなく、罪人を呼ぶために来た』とおっしゃいました。だから罪を犯したら、<この時代の神様の法を与えた人>に悔い改めなければなりません。
その人は「時代の罪」を代わりに受けて「罪の代価」を払い、<神様の法>をもらって伝えてあげて人間を救います。だから<その人>に悔い改め、<その人>の名前を出して悔い改めなければなりません。
神様は<その時代の救いの責任を負った、神様が遣わした人>を通して「悔い改め」も受け取り、「許し」もしてくださいます。
来月は「年末」が始まり、<年末>には神様が個人・民族・世界を検討なさるから、いつも「年末には掃除をしてきれいにすること」です。
今日の御言葉を聞いて、急いで悔い改め、きれいにするようにと、この時に一番切実な御言葉、つまり「罪の悔い改め」に関する御言葉を先に伝えたから、一年間悔い改められなかったこと、悔い改めていないことを、この期間にすべて悔い改めなければなりません。
天が許してくださることばかり漠然と考えるのではなく、自分が犯した罪は自分が一番よく知っているから、必ず悔い改めることを願います。<罪>は「真実に悔い改め」てこそ、許されて、なくなるということを必ず分かって、悔い改めることを願います。
最後の教えと会合
[本 文] ヨハネによる福音書13章12節~20節
12)こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13)あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
14)しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
15)わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
16)よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
17)もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
18)あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。
19)そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。
20)よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。
使徒行伝1章8節
8)ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
韓国の固有の節句の中に<お正月>があります。お正月に目上の人に「新年の拝」をしたら、目上の人が「お年玉」をくれるでしょう?このように、一年の最初であり、始まりの日である<お正月>に挨拶をし、ためになる話をしてあげ、祝福のお金をあげて、一年の「幸運」と「祝福」を祈ってあげるのです。
この意味を分かって<お正月>を迎え、<新年>の拝をするように、<聖餐式>もある程度は分かって参加し、記念しなければなりません。
「イエス様の時の状況」を見ます。神様は<旧約で約束したこと>を成し遂げ、<神様の御心>を成し遂げるために、時になって「イエス様」を「メシヤ」として遣わして<その時代を救う新しい御言葉>を与え、一番先に「神様を信じていたユダヤの宗教人たち」に伝えるようにさせました。
みんな<イエス様の御言葉>を聞いて行なって救われるようにと、神様がイエス様を通しておっしゃいましたが、ユダヤの宗教人たちは「既存の信仰観、既存の認識観、既存の教理観」から抜け出すことができず、「自分の思考と教え」に固執して、はじめから信じず、従いませんでした。
<イエス様の教え>が<自分たちの教え>と違うと言って、イエス様を排斥し、不信し、異端視し、<イエス様の御言葉>をはじめから聞いてみることもせずに、頭ごなしに間違っていると言い、何かの拍子(ひょうし)に<新しい時代の教理>を聞いても、嫌がり、信じなかったし、自分が信じていたやり方どおりに信じると言って、絶対に従いませんでした。
神様は、みんなが悟れるように、すべきことをすべてしてくださいましたが、旧約人たちは<イエス様>を最後まで信じず、むしろ迫害し、殴り、異端視し、殺そうとしました。
それでイエス様は「エルサレム」を離れて「異邦の地」に行って福音をのべ伝え、密かに歴史を広げて行かれました。しかしユダヤの宗教人の迫害はますます激しくなり、そのままにしておいたら、信じて救われる人たちまで救われず、害を受けるほどに状況が傾きました。
彼らが行なったとおりに報いるなら、神様が彼らを滅ぼすしかありませんでしたが、神様は悪人たちと罪人たちを滅ぼす道を選ばずに、救い主が悪人たちと罪人たちの罪の代価を代わりに払って死んであげて、すべての人たちに救いの道を開いてあげる道を選ばれました。
時代の罪の代価、個人と民族の罪の代価を清算できなければ、悔い改めて引き返して救われる機会すら得られずに、みんな裁きを受け、滅ぼされることになるから、誰かが代わりに悔い改めて罪の代価を払って「救いの道」を開いておいてはじめて、滅亡を避けて「救いの機会」を得るようになります。
時代の罪、個人の罪、民族の罪を代わりに悔い改め、代わりに罪の代価を払って全人類に「救いの道」を開く人は、ただ「その時代に神様が遣わした救い人」だけです。
イエス様は激しい迫害によって「異邦の地」に行かれましたが、再び迫害の地である「イスラエルのエルサレム」に戻って来られました。ユダヤの宗教人たちは「甚だしい不信と憎む心」をもってイエス様に向けてありとあらゆる殺人的な行為をし、ユダヤの宗教の法、国家の法、世論の法でイエス様を「死」に追いやりました。
イエス様は「ご自身の死」を分かって、捕まる日の夕方に弟子たちを全員集めておいて「今、万民のために神様が定めた道に行かなければならない時が来た」とおっしゃって、最後に「晩餐」をなさいました。
<聖晩餐>はイエス様の肉体が生きていた時、弟子たちと最後に会うことでした。
イエス様を信じて従うすべての人たちは、この時を覚えて、救い主イエス様の体になって福音をのべ伝え、神様の御心を広げるようにと、<聖晩餐>を毎年記念として行なうようにしました。
<イエス様の死>は、その時代が信じることができなくて殺したことだから「苦難の道」でした。しかし全人類のために死んであげて、みんなを生かし、救いの道を開いてあげたから「栄光の道、救いの道」でした。
イエス様は結局十字架を背負って万民に「救いの道」を開いてあげ、すべての人々がイエス様をメシヤとして信じて救われる機会をくださいました。イエス様が十字架を背負ってから、イエス様を信じて従った人たちの罪も許され、清くなり、その時から「聖霊」が強く働きかけて、<使徒の歴史>が起こりました。
<神様が行なう歴史>は、全人類が駄目にしようとしても駄目にならず、全人類が止めても止められません。人々が神様の歴史を止めたら、神様は「違う道」で行なって、何としても!!御心を成し遂げます。
今日の御言葉を聞いて、聖餐式の意味と御心を分かったから、みんな<聖餐式>に参加して、「主の肉」になって勤しんで走りますと決心し、この福音を全世界に広くのべ伝える皆さんになることを祝福します。
時間が速く過ぎて行くということを悟って、霊的に使いなさい
[本 文] エペソ人への手紙5章16節
『今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。』
(韓国語聖書:時間を惜しみなさい。邪悪な時代だ。)
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は<時間>について悟らせてあげ、時間をどのように使ってこそ最先端に使うのか、時間をどのように使ってこそ同じ時間を5倍、10倍もっと使えるのか話してあげます。
人生を生きてみたことのある人たちは、時間がどれほど速く過ぎるのか分かるでしょう。80~90年生きても「歳月があっという間に過ぎてしまった。いつ80年が過ぎたのだろう?」と言います。このように時間は早く過ぎます。子供にも、青年にも、中年にも、老人にも、<時間と歳月>は大目に見てくれることもなく、一日も休まずに、続けて流れていきます。
<時間>は「地球の公転と自転」だから、地球世界73億人が力を合わせて掴んでも、<時間>は止められません。<地球の公転と自転>を誰が止めることができるでしょうか?人生よ~老いるな。‐と言って止めても、人生は老いていくし、時間よ~行くな。‐と言っても、時間は流れていきます。
だからより速く考え、より速く走ってこそ<時間を掴んだ人>になって、自分の肉にも「多くのもの」を残し、自分の霊には「永遠なもの」を残して、成功した人になります。
<考え>が速く回り、<考え>が素速くなければなりません。そうしてこそ<体>も素速くなって、<実践>も速くなります。そうするためには、<肉>だけをもって行なってはだめです。<肉>は遅くて、<速い時間>に追いつけないので、必ず祈って、「霊的」に行なわなければなりません。
霊的に行なうこととは、どんなことをするにしても必ず<聖霊>を呼び、<主>を呼んで、聖霊と共に、主と共に行なうことです。そうすれば「2時間」ですべきことを「1時間」のうちにできて、<1時間を掴んだこと>になります。
<時間を掴む方法>は「速くすること」であり、<速くする方法>は「霊的・神的にすること」です。<肉的>に走るのでは時間を「2倍」も掴むことが難しく、<肉的>に走ったら、走っても、他の人よりもう少し、指尺もう一つ分、もう一足、先を行くだけです。
<霊的>に、<神的>にしてこそ「10~20倍の時間」を掴んで使うようになります。<神的にすること>とは、神の頭を使用することです。つまり神様と聖霊様と御子の考えどおりに行なうことです。そして考えの次元を上げて、「迂回していく道」を直線で行き、「すべきでないこと」をしないことです。
全能なる神様と聖霊様と御子が指示するとおりに、その方法どおりに行なう時、それが「神の頭を使用すること」になり、自分の考えが「天のように高い考え」になって、10倍、100倍時間を掴んで使う人になって行なうようになります。
今日は<時間>について話しました。「時間をどのように使うか」によって<黄金の時間>にもなるし、<鉄のような時間>にもなるし、<汚物のような時間>にもなります。
時間を三位一体と一緒に使ってこそ、その都度<黄金の時間>として使うようになるから、今日の御言葉で、時間が速く過ぎて行くということを悟って、霊的に使い、すべき時、すべき時間に考えて行い、みんな時間の勝利者になることを祝福します。
その瞬間立ち寄って行く人たち
[本 文] コリント人への第一の手紙13章10節
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人は誰もが<顔>はすぐに老けます。年をとったら、<顔>を見るだけでは、誰が「過去、美人」だったか、誰が「過去、不細工」だったか区別できません。一度年とった人たちを一か所に集めておいて、「過去、美人」は誰だったか探してみてください!ちょうどみんな「秋」を迎えて「落ち葉」になったから、どの草が「ひと夏に本当に瑞々(みずみず)しかったか」、分からないようにそうです。だから人は<考えの質>を見て、<行ない>を見て、<魂>を見て、<霊>を見てこそ、その人がどのような人なのか正しく知ることができます。
だから人は<考えの質>を見て、<行ない>を見て、<魂>を見て、<霊>を見てこそ、その人がどのような人なのか正しく知ることができます。
人は<外見>がいくら美しくても、<考えの質>が悪ければ、結局<その考え>によって自ら崩れます。
<考えの質>がよくてこそ<行ないの質>がよく、それによって<霊魂の質>もよくなって輝き、美しく変化します。
<肉>は変わりやすく、歳月が過ぎれば、しわくちゃになります。過去、美人だったとしても、その<肉>はもうおばさん、おじさんになり、中年になりました。早く<肉>が完全に老いる前に、早く<肉>を「種」として蒔いて、<霊>を美人に変化させ、<霊の実>を刈り取らなければなりません。これが最先端の知恵です!
<霊界>では「美」を重視します。<三位に向けての愛の功績>が「霊の美と輝き」として現われ、<三位の御心どおりに義を行なった功績>が「霊の美と輝き」として現われるからです。三位を真実に愛し、三位の御心どおり行なった功績が大きければ、霊の身長も高く、霊がぴかぴかと輝き、美しいです。
愛も功績もいまいちの霊の身長美もいまいちです。誰でも三位一体に仕え、愛して、その御心どおりに生きたら、みんなふさわしいから<霊体>が美しく備えられ、輝き、発達します。
みんな御言葉通りに行なって、三位の前でその瞬間立ち寄って行く人たちではなく、三位と主を近くする貴重な「肉と霊」になり、<肉>も「考えの美人、行ないの美人」になり、<霊>は「霊体の美人」になることを祝福します。
我慢してばかりいないで、そこから出てきなさい
[本 文] コリント人への第二の手紙5章1節
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
コロサイ人への手紙1章5節
この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
今日は<罪を犯さず、不義を行なわない方法>について話します。
人間は目で見、耳で聞くとおりに多くの影響を受けます。いくら大人でも、自分を作った人でも、人間だから目に見えるとおりに、耳に聞こえるとおりに影響を受けるようになります。たとえば、自分の目の前に「異性行為」が見えるとしましょう。そうしたら自分の心はそうでなくても、目に見えるものの影響を受けて、瞬間<考え>がそちらの方に向くようになります。
この時ずっと目に見えるのに我慢しなさいとばかり言ったら、なかなか我慢できません。この時は考えも体も「その主管圏」からすぐに出てこなければなりません。その主管圏にいるようにしておいて、するなと言うことは、目を開いていながら、世の中を見るなという言葉と同じです。
たとえば一人で<兄弟たちとけんかをする考え>をするか、実際に<兄弟たちとけんか>が始まったら、我慢するからといってけんかが終わるのではありません。我慢せずに、すぐに「その環境、その主管圏」から体も心も出て来れば、「我慢することで解決されない問題」が解決されます。
またもう一つのことを説明してあげましょう。手榴弾(しゅりゅうだん)、分かるでしょう?
手榴弾は「安全ピン」を抜いて投げたら爆発します。安全ピンを抜くまでは絶対に爆発しません。ところが!「安全ピン」と関係なく手榴弾が爆発する時があります。手榴弾を熱いストーブのそばに置いて熱を加えたら、安全ピンと関係なく爆発します。
<心と考え>は「手榴弾の安全ピン」です。安全ピンを挿しておいたように<心と考え>でやらないと言っても、しきりに<肉>や<考え>に熱を加えたら、結局手榴弾が爆発するように、結局<罪>を犯し、<不義>を行うようになります。
よく「一日に三回我慢しなさい! みんな我慢しなさい!」という方法で問題を解決しようとするけれども、<我慢してできること>は他にあります。<我慢して解決する方法>はほとんど失敗します。
だから<我慢する方法>より<その環境から出てくる方法>の方(ほう)がもっとよい方法であり、問題を解決する絶対的な方法です。そうしたら『心』も『体』も罪を犯さなくなります。
神様は私たちを<罪の主管圏、不義の環境>に入れておいて「我慢しなさい!」といって、条件を立てさせることはせず、そこから出てこさせて、見ず、聞かないようにさせて、条件を立てさせます。
だから今日の御言葉を聞いて、その環境、その主管圏で目で見て、耳で聞きながら我慢してばかりいないで、<罪の主管圏、不義の環境>から出てきて、ためらわず<神様の主管圏の中>に入ってきて、行なう皆さんになることを祝福します!
備えて行ないつつ次元を上げなさい
[本 文] 列王記上5章18節?
???????? 『こうしてソロモンの建築者と、ヒラムの建築者およびゲバルびとは石を切り、
材木と石とを宮を建てるために備えた。』
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
人々は「自分の次元のもの」だけを見て感じて生きるから「その次の次元のもの」は知らずに生きます。
飛行機も<次元、高度>を上げなければ飛んでいけません。人間も<次元>を上げなければなりません。そうするためには「自分の水準、自分の次元」から抜け出し、「神様の御言葉」を正しく学んで聞いて、知らなければなりません。
誰でも<教育>を受けなければ、<次元>を上げられません。<自分の次元>にだけいたら、その次元にだけ留まるようになり、その次元のものだけが見え、その次元の答えだけをもらうようになり、その次元を抜け出せず、享受することもできません。
だから人は学び、教育を受けなければなりません。
<次元>は「軍隊の階級」と同じで、「公務員の級」と同じで、「会社の職級」と同じです。
<自然の洞窟>も、国ごとに、形成されたとおりに「等級」があり、<文化財>も形のとおりに「各種の等級」があるように、人生も「次元と級」があります。みんな「A 級の人生、最高級の人生」になることを願います。
そうするためには「肉の考えと行ないの次元」を上げなければなりません。<肉の考えと行ないの次元>を上げることは誰でもできます。もう<一次元>上げれば、「現在の次元で願っているもの」をもらうようになり、<一次元>高いだけでも、ものすごい差がつきます。
<一次元>は「もう少しだけ」やれば上げることができるから、みんな「もう少しだけ」やって、<一次元>ずつ上げることを願います!次元を上げれば、昔のものから抜け出して変化し、喜び、希望が成就して、理想世界です。
木を育てる時も、木がぐんぐん伸びる時に肥料を与えてこそ木がもう一次元大きくなります。このように、人間も「次元を上げる時」があります。ぐんぐん大きくなる時に、次元を上げなければなりません。遅くやったら、次元を上げても、その分、使って楽しむ時間がないから、早く次元を上げることです。
車のスピードを出そうとする時も、<心>だけでは駄目で、実際に<アクセル>を踏んで、スピードを出さなければならないように、行ないつつ次元を上げることです。このように次元を上げる時は一つ一つ行ないつつ、備えつつ上げなければなりません。
<大きい車>を買いさえすればいいですか?「運営する能力」がなければならないように、<万事すべて>がそうです。今日の聖書の本文にも、聖殿を建築するために「石と材木」を備えたと書いてあります。<信仰の世界>もそうです。一つ一つ備えつつ「次元」を上げるのです。
皆さんみんなが勤しんで備えつつ、その都度「次元」を上げる生を生きることを祝福します。
<現在すべきこと>は「今」しなさい。「今、主と一緒に」だ
[本 文] 伝道の書3章1~8節
1)天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時が2)生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3)殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4)泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5)石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6)捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7)裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8)愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる神様の愛と御子の平安を祈ります。
<現在すべきこと>は「現在」するのであり、<未来にすべきこと>は「未来」になってするのです。<現在できなかったこと>は「未来」になってすることはできません。<現在できなかったこと>を未来になってやっても、すでに<時間>が過ぎ、<時>が過ぎたので、やっても効果がないし、また、<未来>になってからは「未来の仕事」をしなければならないので、<現在の仕事>は「現在、今」しなければなりません。
<現在のこと>は「現在」してこそ、<未来>になってもそれによって「実」を刈り取るようになります。<過去>は「現在」を生み、<現在>は「未来」を生みます。だから<現在のこと>は「現在」やってこそ、<現在>も栄え、<未来>になっても得るものがあります。
<神様の歴史>もそうです。
人々が準備ができていても、できていなくても、必ず「時」に合わせて行なわれます。<季節>を見てください。人間を待ってくれません。<時>になれば、ただちに季節の服に着替えるように、人間も「その時」に従って行なってこそ、順理で生きるようになります。
<その時>になったら、誰かを待つのではなく、一人でやるとしても、「その時」にしなければなりません。一人ででも「その時」に合わせてやっていたら、<時>が助けます。一人でやるとしても「すべき時にする人」が最高の知恵者です。
<日が昇った時>と<日が暮れた時>とは「状況」が変わるように、<時>が過ぎたら「状況」も変わります。
同じ海の水でも、<夏>は入って泳ぐことができますが、「暑い時」が過ぎて<冬>になれば、状況が変わって、海の水が氷のように冷たくなって、入ることができません。だから<時>になったら、その時、速くやりなさいということです。そうしてこそ「状況」が変わっていなくて、易しく、うまくできます。
人は<同じ距離>を行くにしても「行く方法」はいろいろです。楽に歩いて目的地まで行く方法があり、大変でも走って速く行く方法があり、お金がかかっても車に乗ってもっと速く行く方法があります。
ゆっくり行けば、目的地に着く時間がそれだけ遅くなり、遅く得ます。速く行けば、目的地に速く到着して、速く得て享受するようになります。
ゆっくり行って遅く到着して、遅く得るのか、速く行って速く到着して、速く得て享受するのか、これは「どれだけすべき時に速く行なうか」によって左右されます。
楽に行っても遅く行ったら、得て享受する時間がなく、苦労しても走って速く行けば、得て享受する時間がたくさんあります。
ある人は「楽な方法」だけを選んで生きます。楽だからいいでしょう。しかし<楽なこと>が「幸せなこと」ではありません。苦労しても心を尽くして行なう人が、一番速く得て、一番たくさん得て享受するようになります。
今日の御言葉を聞いて、<現在すべきこと>は、今!すべき時!に、主と一緒に行って、たくさん得て、たくさん享受する皆さんになることを祝福します。
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