「弱い人が信仰を持つ。」 「自分に自信がないから、すがるものが必要。」 という勝手なイメージがありました。 いざ、信仰を持ってみると全然違う。 むしろ肉体や精神が強くないと、信仰も持てないのではないかと思うほどですw 信仰を持つことで、精神や考えが育ってきて、強くなっていくという過程もありますが、行ないが伴う実践信仰を持つなら始まりの段階である程度の体力と知力、精神力は必要な感じはします。 自分の生活もあるところに新しい生活スタイルが加わるわけですから、理論上キャパがないと破裂しますよね。 それでも自分の人生の意味を見出そうと努力して、信仰者の道を選ぶのですから、すごいことだと思います。 だから、信仰を持つということはすごく勇気のいること。 全ての信仰人に頭が下がります。
信仰を持ち始める段階で、体力が必要という話を先にしましたがある聖句で書いています。
マタイによる福音書26章41節誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
イエス様が弟子たちにおっしゃった言葉ですが、ご自身が遠い場所に行くからこの場所で祈っておくようにと言っておいたのですが、体力と睡魔に負けて弟子たちが眠ってしまったんですよね。
祈ることって体力が必要です。
集中しますからね。
祈りは対話だと教えてもらいましたが、普通に対話している時は楽しくそんなに疲れている感じはしませんが、話すということは実はかなりのエネルギーを消費しているということは有名な話。
それに加え、目に見えない神様、全知全能で恐れ多い神様に集中して祈るのですから、どれだけ神経を使うことでしょうか。
そりゃあ、体力が必要ですわ。
この聖句を読むたびに
「あ、筋トレしよう!」
とか、
「あ、ランニングしよう!」
と、もはや条件反射的に思うようになりました。
健康管理のためだけの筋トレじゃなくて、信仰を力強く持っていくためにも筋トレってすごく大事。
ダビデ像もかなり筋肉質に描かれていますよね。
wikipedia参照
作者のミケランジェロがこのように彫刻したのは、神様が選んだ人ならこれくらいの見た目であってほしいという願いの表れでしょうかw
肉体も精神も美しく鍛えていきたいものです。
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