私を摂理に伝道してくれた妹がいます。まったく似ていない妹です。
私が摂理人生を送る中で、もっとも、試みに合うのは
妹を通して起きるエピソードが非常に多くあります。
日常のささいな事から、
「これでも、あなたを妹として愛さなきゃいけんと??」と涙にくれる出来事まで。
(御言葉を聞く前からの、姉妹としての色んな出来事も拍車をかけて湧きあがる感情もあります)
それによって、得るものは
心が磨かれる事です。
そのエピソードを、御言葉によって解き、
神様はどのようにする事を望まれているのかを確認し、
そのように、己を捨て次元を上げようと努力するプロセスを通過する事。
これは、血の通った姉妹だからというよりは、
チーナ姉妹だからでしょうね。
教会の仲間には抱かないような感情が芽生えるし、
教会の仲間にだったら言わないような言葉が出てしまうし…。
それはなぜなのか…、最近分かってきた事の1つに、
使い分けていないようで、教会の仲間とチーナ姉妹に接する時に、
何かしら違いがあり、矛盾があり、甘えもあり、姉妹だからはっきり言える面があり、
不完全だから
試みにあうのだと分かりました。
本当にもがき、という言葉がそのままですね。
またさらに、それによって悟るのは、
100%を望まれる神様だという事です。
たとえ、教会の仲間同士では出来ていても、
チーナ姉妹では出来ない事があるのは、矛盾ですよね?
完全に生きるためには、
一つ、「脳」をちゃんと使用しなければならない。
自動車があっても、<自動車を作動させる方法>を分かってこそ運転できるように、
人間が生きるときも、<自分の脳を作動させる方法>を分かってこそ事故を起こさず、
人生を完全に生きることができる。
完全に生きるためには、
二つ、「成長」しなければならない。
すなわち、<肉の成長、精神の成長、行動の成長>だ。
つまり一方から<根性>で接するとき、相手は<神性>で接したら、
「争い、憎しみ、戦い、極端なこと」が発生しない。
–鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師の御言葉より–
成長するためだと分かると、頑張れますし、
自分が1つ先を行けば衝突する事はありません。
経過途中は「しんどいな」と感じる事もあるのですが、
完全に心を空けられなかった事、
御言葉に従順できなかった事、
お祈り出来なかった事でこのようになったな、と思います。
やるしかないので、頑張りますし、
”やればできる” ので、もっと頑張れます!!
教えて下さる主に感謝します!!
今日も主と共に~
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