先日、ふとしたことから大学の後輩が「実は聖書を学びたかった」という事を知って、お師匠に教えて貰った聖書の話(バイブルスタディ―)をその子に教えるようになった。
その子は2~3回バイブルスタディ―を学んだが、「まだ、神様がいるのか半信半疑です。」と言ってきた。
@matome
そんな中で、その子が「復活」のバイブルスタディ―を聞いた。
「聖書の御言葉は、聞いて終わる知識の御言葉ではなく、自分で正しく分かって行って変化していく御言葉だ」という話をすると、急に手を合わせて、
「あぁ!恥ずかしいです‼゜゜(´□`。)°」
なぜか恥ずかしがり始めた。
@www.i-ah
その理由を聞くと、
「今まで半信半疑だからと行なってきませんでした。
でも、行って変化してみてこそ神様を感じられるのに、
行なわないくせに感じられないと言っていた私が、ただただ恥ずかしいです(;´Д`)」
そう言って、神様の前で今までの自分の姿を悔い改め始めたのだ。
その姿を見ながら、
(あぁ、その事に自分で気づけたのが大きいな)
そう思った。
聖書の御言葉は、聞くだけでは「ただの良い話」だ。
でも、神様はそのために聖書を霊感で人間に書かせたのではない。
聖書の御言葉を行なって、
自分で実際に実感して、
一つ一つ経緯を作って
よりよく変化していく為に
人間にプレゼントとし与えたメッセ―ジが聖書だ。
だから、自分で感じられるまで自分が実践もしていないのに、
聖書について、
神様について
「信じられない」
「分からない」
「感じられない」
と全否定するのはオカシイ。
@store.shopping
お師匠だって、聖書を数千回読み、
何十日も祈り、
聖書の御言葉を毎日毎日行ないながら
やっと一つずつ悟ったものなのに…。
今日、
心から恥ずかしく思っている彼女の姿を見ながら、
(あぁ、この子は変わるだろうな。)
そう思った。
神様の御言葉は、
人の心と行いを
より良く変える御力がある。
しかし、
該当者は「最後まで行った人」だ。
「最後まで」とは?
自分が体験するまで。
自分が実感するまで。
自分が悟るまで。
自分が完全に変化するまでだ。
誰だって、自分が体験しないとはっきりと信じる事は難しい。
でも、はっきり体験してしまったら、もうそれを否定することはできない。
行なってみてこそ分かる世界が聖書の世界だ。
まだ今は半信半疑でも、取り敢えず
自分で最後まで行ってみてから判断して欲しいなと思うまっちゃんでした☆。.:*・゜
<聖書の御言葉>はすべて
天国に導く案内標識に過ぎない。
読むだけにする人は
標識だけを見る人と同じだ。
行なってはじめて得る。
@www.god21.net