ニュースで見る「異端児」という表現
ニュースで使われる時は「○○業界の異端児」という表現がありますが、この場合の「異端児」の表す意味は
「ある分野で正当から外れた特異な存在とみられている人」
「正当派に属さず、独自の活動を独自に行なう人」
「正当派に属さず、特異な存在として注目を集める人」というものです。
この場合、否定的な意図もありますが、ある程度は好意的な意図を含んで使われる場合や、注目を集める目的で使われる場合もあります。
「金融界の異端児」
「球界の異端児」
「建築界の異端児」
このような表現がそうです。
歴史的な異端児
絵画の世界
絵画の世界では、ピカソやラファエロが挙げられます。
ピカソは今でこそ天才画家と言われています。
彼の代表作である「ゲルニカ」はあまりにも有名です。
彼が生み出した作風は「キュービズム」と言い、「いくつかの視点から見た物を全て一つの絵の中に入れ込んでしまう」という、それまでの絵画の概念を完全に覆す全く新しい作法でした。
彼は、世界で初めて空を飛んだライト兄弟を尊敬しており、「失敗や死の危険を冒してこそ、その偉業は世界を変えることが出来る」と考えていました。
26歳の時、彼がキュービズムの画法で作成し、一番初めに世の中に出したのが「アビニョンの娘たち」という絵でした。
しかし、その当時の人々には受け入れられず、「美の破壊」と散々酷評され、画家仲間にも「彼はこの絵のせいで自殺するのではないか」とまで言われたそうです。
あまりにもこの絵が酷い扱いをうけたので、彼はこの絵についてその後一切語らなくなり封印します。
しかし、ピカソは晩年になり「この年になってようやく子供らしい絵が描けるようになった」と言って、悪評を気にしなくなりました。
50歳を過ぎて描いたのが、スペイン内戦を描いた「ゲルニカ」です。
「ゲルニカ」は発表当時は評価されませんでしたが、のちに「反戦のシンボル」として「20世紀を象徴する絵画」とされるほど高い評価を受けるようになります。
その後、ピカソは「キュービズムの創始者」として、後の絵画世界に大きな影響を与える画家となりました。
また、今は名画として知られているラファエロも、当時は裸の絵が「卑猥」とされ批判されました。
システィーナ礼拝堂の壁一面に描かれているミケランジェロの「最後の審判」も、裸の絵が当時のキリスト教から「異端」だと批判されたため、仕方なくイエス様やペテロなどの腰の部分にあとから「布」を描きたして隠しています。
当時、キリスト教は一大勢力だったため、従わなければ画家生命が絶たれる可能性が高かったためと言われています。
しかし、今ではダ・ヴィンチやミケランジェロやラファエロはルネサンスの代表となるような有名な画家たちです。
ラファエロは、後世になってから「新プラトン主義」を美術作品に昇華した人物として高く評価されるようになりました。
彼が描いた天使の絵は、便せんやノートに印刷されて日本でも売られています。
本物は目にした事が無くても、売り場などで一度は目にした事があるのではないでしょうか。
天文学の世界
天文学の世界では、ガリレオ=ガリレイがコペルニクスが唱えた「地動説」を支持しましたが、当時は古代ローマのプトレマイオスが唱える「天動説」が主流だったため、彼の主張はキリスト教徒から「異端」とされ、宗教裁判にかけられ迫害されてしまいます。
彼が残した有名な一言に「それでも地球は動いている」というものがあります。
彼が生きている当世にはキリスト教からの反対が酷くて認められませんでしたが、長い年月を経て1992年にローマ教皇が「地動説」を認めて謝罪しています。
そして、今では彼の主張した「地動説」が学校でも教えられるようになり、彼は「天文学の父」と呼ばれるようになりました。
音楽の世界
音楽界では、エリック・サティが「異端児」「変わり者」とされていました。
彼は、既存の西洋音楽に問題意識をもっており、革新的な技法で作曲していくようになりました。
それまでの伝統を完全に無視した彼の作曲は当時「違反」とされました。
その後、エリック・サティの影響を受けたドビュッシーが人々から認められるようになりました。
これまでの歴史を見ても、「異端」とされるのは「当時の人々の認識・常識」をくつがえすような全く新しい何かを発明・造形・思考する時に起こるように感じられます。
その結果、当世では認められずに心無い言葉を投げつけられたり、迫害されたり…酷い時には殺されることまであったようです。
しかし、後世になってから、その価値が認められるようになったものも数多くあります。
正当から外れることを嫌う日本人
日本人からしたら「正当から外れる」という言葉を聞くと、何か良くない印象を受けがちです。
「長いものに巻かれろ」
「出る杭は打たれる」
そのように表現される日本社会だからこそ、「みなが良いと思っているものが良い」という暗黙の了解というか、そのような認識がまだまだ根強いように感じます。
しかし、その反面、日本は海外のものに対して柔軟な吸収力を持っています。
海外の文化に柔軟な日本人
キリスト教を信じている人が1%にも満たない国なのに「クリスマス」はみなが当然知っている行事となっています。
「バレンタインデー」「イースター」「ハロウィン」
日本のお菓子や食品業界の努力の賜物でもあると思いますが、イベントに乗っかるのがとても上手です。
メディアの広告などにおけるアピールの力とも言いますか・・・
そして、そのイベントを宗教に関係なく楽しめてしまうのが日本人でもあると言えます。
宗教に関係なく文化を楽しむ日本人
クリスマス
日本に遊びに来たクリスチャンの友だちは、「日本人は神様を信じないのにクリスマスはお祝いするの?!」と驚いていました。
その話を聞いて、「あ、そうか。クリスマスはイエス=キリストの誕生日だったんだっけ・・・(;’∀’)」と思ったのを覚えています。
イエス=キリストの誕生日だとは知っているけれど、それはクリスマスのメインではなく・・・
メインは、自分がプレゼントを貰う日!
そう認識していた幼少時代でした(;^_^A
小学校で「クリスマスは何の日?」と私が担任していた子どもたちに聞いた時も、一番初めに出てくる答えは「プレゼントを貰う日!」でした。
40人学級の中で2~3人くらいが「イエス様のお誕生日」と答えていたように思います。
バレンタインデー
バレンタインデーも同じです。
元々の由来は、ローマ帝国の迫害で殉教した「聖バレンティヌス」に由来する記念日です。
彼はキリスト教の祭司で、当時婚姻が禁止されて嘆くローマの兵士たちを憐み、法を犯しても彼らの為に結婚式を行なってあげていました。しかし、その事が見つかり最終的に処刑されました。
その処刑日が2月14日だったのです。
それを元に、2月14日は「聖バレンティヌスが守った恋人たちの記念日」となりました。
そして、お返しをするホワイトデーの由来ですが、「恋人たちが改めて永遠の愛を誓った」というエピソードがもとになっているようです。
しかし、ホワイトデーを記念日としてお祝いしているのは日本を中心とした東洋だけです。
そもそも、プレゼントを貰ったらお返しをする律儀な日本人気質に目を付けたお菓子業者がイベント化したのが由来のようです。
イースター
最近徐々にイベント化されてきている「イースター」も、元々は「キリストの復活」をお祝いするキリスト教の祝祭です。
イエス=キリストが十字架で無くなった後、3日半して復活したことを記念して、キリスト教の人たちは「復活祭」としてイースターをお祝いしてきました。
イースターの表象である「卵」は「新しく生まれる=復活」を意味しています。
この卵を色鮮やかに色付けしてお祝いするのです。
イースターは日にちが固定されておらず、毎年「春分の日の後、初めて迎える満月の日」と定められています。
今年2017年は、4月11日がイースターです。
ちなみに、日本やカトリック・プロテスタントなどが使っている「グレゴリオ暦(西暦)」とは違う「ユリウス暦」というものをロシアなどの東方正教は使っています。
この暦の違いでもイースターの日が変わります。
しかし!
2017年だけは、グレゴリオ暦もユリウス暦も4月11日になるそうです!
これ、なかなか無いことで、次にピッタリ合うのは8年後の2025年だそうです。
そう考えると、今年のイースターは何だか特別な気がしますね。
ハロウィン
ハロウィンは古代ケルト人のお祭りが由来になっています。
古代ケルト人の一年の終わりは10月31日でした。
ケルト人の風習で、一年の最後の日には悪霊がやってくると信じられており、悪霊を追い出す宗教的な意味合いのお祭りをしていたそうです。
その後、ケルト系民族をカトリック系民族が侵略し、このお祭りをキリスト教にも取り入れたところから、ハロウィンの行事が生まれたようです。
お化けの仮装をするのも、カボチャの飾りを飾るのも、元々は悪霊を追い出すためみたいです。
最近は子どもたちが家で友だちを招いて仮装をしてハロウィンパーティするお家も出てきています。
さて、クリスマス、バレンタインデー、イースター、ハロウィンの元々の意味をあげてみましたが、あなたはいくつくらい知っていましたか?
元々の由来を知らなかったり、趣旨は本来のものと全く違うお祝い方をしているとしても、「クリスマス」「バレンタインデー」などをお祝いしているのが日本人です。
これを見ても、日本はとても柔軟な国だと言える一面があることがお分かりになるのではないでしょうか?
日本の行事とお祝い品
1月 お正月には、おせち料理とお年玉(日本)
2月 バレンタインデーには、チョコレートやプレゼント(キリスト教)
3月 ホワイトデーには、お菓子やプレゼント(日本)
4月 イースターのお祝いに、卵(キリスト教)
5月 子どもの日・母の日のお祝いに、プレゼント(日本)
6月 父の日のお祝いに、プレゼント(日本)
9月 敬老の日のお祝いに、プレゼント(日本)
11月 ハロウィンは、お菓子と仮装パーティ(キリスト教)
12月 クリスマスには、ケーキとプレゼント(キリスト教)
毎月、お菓子やプレゼントが盛り沢山。
こんなにイベントが多い国も珍しいのではないでしょうか。
小学校に勤めていても、毎月何らかのお祝いやイベントをしていたように思えます。
商店街やスーパー、大型ショッピングセンターを見ても、11月31日にはハロウィンのグッツで店内がいっぱいになっていたのに、次の日12月1日には完全にクリスマスのお菓子やプレゼントであふれかえっているという状況をみた方々は多いのではないでしょうか。
その切り替えの早さに、毎回脱帽しています(◎_◎;)
大量のクリスマスグッツで埋め尽くされていた12月25日と12月26日のギャップ。
お正月の飾りつけに一夜にして変わっている店内を見て。
(あ・・・えっ?!・・もう?!)
そう戸惑ったのを覚えています(笑)
私の中で、サンタクロースやツリー・プレゼントなどのクリスマスモードと、鏡餅や松飾などのお正月モードがあまりにも違いすぎて、翌日ものすご~く違和感を感じました(;^_^A
「余韻」が全く無い切り替えの早さ。
アッパレとしか言いようがなかったです(笑)
日本人の思想
こんなに外国の文化を取り入れることに柔軟な日本人なのに、どうして「出る杭は打たれる」思想がはびこっているのでしょうか?
集団心理が根強い日本の背景には、やはり教える側の思想の影響があるように感じます。
子どもを育て教育する大人の側の考え方。
子どもは、とても真っ白なキャンバスと同じです。
そこにどのような色を付けていくかは、育つ中で様々に受けるものによって変わるでしょう。
私たち大人は意識していなくても、子どもを諭す時に
「こら!みんな見ているでしょう?」
「みんなこんなことしていないでしょう?」
そのように、「周りと同調することを強いる表現」を使ってはいなかったでしょうか?
「みんなしていない」
「あなただけするのはおかしい」
「恥ずかしいでしょう?やめなさい!」
「みんなと一緒にしようね」
そのような声かけが普段からされると、子どもたちも
(あぁ、みんなと一緒だと良いんだな)
(みんなと違うと恥ずかしいんだな)
そう無意識に自分の脳に入力してしまうのではないでしょうか。
無意識の教育
無意識の子育て
無意識の声かけ
無意識のふるまい
自分が育ってきたなかで知らず知らずに自分の中に蓄積されてきた集団心理を、わたしたちは無意識に子どもたちに押し付けてはいないでしょうか?
日本の中にいると見えにくく、おかしいとも思えない集団心理。
しかし、海外に行くとどうでしょうか?
「あなたの意見は?」
「私に合わせないで」
そのように、自分の意見を求められることがとても多いです。
また、
「日本人は感情をそのまま出さないよね」
「日本人って『大丈夫』といいながら、本当は大丈夫じゃない時が多いよね。何で?!」
「私たちは自分の感情に素直だよ。誤魔化さないわ。」
そのように言われたこともあります。
日本に暮らす中で、周りの意見を重視しすぎて、自分の感情や意見を我慢した経験がある人は多いのではないでしょうか?
私は三人兄弟姉妹の長女ですが、何かをするたびに
「あなたはお姉ちゃんでしょう?」
「我慢しなさい」
そういわれた経験があります。
我慢したら「えらい」と褒められました。
だから(本当は嫌だけど、お姉ちゃんだから我慢しないといけないんだな)と思った経験があります。
そんな風に育ったから、多少の無理はしょうがないと思うし、大丈夫ではないけれどついつい「大丈夫」と口から出てしまうことが多かったです。
私は、海外の友だちに「日本人の『大丈夫』は信用できない」と言われて、ハッとさせられました。
日本では「美徳」とされることも、海外では「不徳」になることもあります。
摂理に出会って変化した私の人生
「本音を言わない日本人」の一人だった私。
小学校・中学校と学級委員長や生徒会役員に入り、学校の代表で北海道に交流をしに行ったり、地域の代表として県知事と対話をしたりと、当時はかなり優等生でした。
優等生だったからこそ、「私が我慢しないといけない」と自分に言い聞かせて我慢していたことも多かったです。
私の中で「自己犠牲は美徳」でした。
そんな私が、大学二年生の時に摂理の御言葉に出会い、少しずつ考え方が変わりました。
もともと20年以上生きてきた土台をかえるのはたやすくなく、ついつい「本音」を隠して無理してしまうことも多かったですが、神様が私をご覧になって、沢山御言葉で教えて下さいました。
「あなたがとても大事だと神様はご覧になっている」
「あなたは神様から見てとても価値がある存在として創造された」
「神様は一人一人を本当に愛していらっしゃる」
「神様に何でも告げたら良い」
そうチョンミョンソク牧師に学びました。
それまでは全く人に相談しなかった私が、神様に相談するようになり、神様に相談できるようになると、徐々に周りの人にも相談できるようになりました。
そして、一番大きな転換期は、体調を崩してしまった時です。
体調を崩した時に、また私は我慢をしてしまって何も言えなかったんです。
「自分の弱さ」を出せませんでした。
「助けて欲しい」と言えませんでした。
でも、同じ教会の摂理姉妹も、東京にいた牧師さんも、私の所に尋ねてきては、寝込んだままの私の手をギュッと握って治るようにお祈りしてくれました。
チョンミョンソク牧師先生も、私が体調を崩したことを知って手紙を下さり、私の為にお祈りして下さいました。
涙が出ました。
嬉しくて。
ありがたくて。
私は弱音を吐くことが嫌いで、ついつい我慢しすぎたり、頑張りすぎてしまう性分なのですが、甘えられる人たちに囲まれていることに気づかされました。
一番辛く大変な時に、私は一番の愛情を受けました。
摂理では、強いることはしません。
一人一人が自らの考えで「良い」と思うことを行動します。
だから、1人1人が来て下さったお見舞いは、誰かに言われたわけでもなく、私が倒れているのを噂に聞きつけた方々が自分の思いでかけつけて下さったのです。
本当に「愛」がなければできないことだと感じました。
私は、神様の愛と摂理の姉妹たちの愛をうけて本当に変わりました。
聖書に書かれている一番のいましめは「愛」です。
マタイによる福音書22章36~40節にはこのように書かれています。
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」
イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、
『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』
これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」
神様と隣人を心から大切に思い愛すること
イエス様は聖書の中で、それが一番大事だと教えて下さいました。
「無償の愛」を私に与えてくれた摂理の人たち。
こんなにも聖書の言葉を実体としてなしている人たちなのに、どうして摂理は「異端」と言われているのでしょうか。
「異端」と「正当」
キリスト教は、従来の概念を壊すような新しい考えや教理を唱える者にたいして「異端視」してきました。
ガリレオ=ガリレイの地動説
ルターの宗教改革
両方とも、キリスト教徒から「異端」とされ、迫害を受けています。
摂理がキリスト教徒から「異端」だとされるのも、その教理が従来の物と比べて新しいからです。
キリスト教の「四大教理」というものがあります。
キリストは雲に乗って来る
死人の復活
終末・火の裁き
空中引き上げ
このような教理の解釈が従来のものと異なるため、「異端」だと言われているようです。
しかし、チョンミョンソク牧師はこれらの教理も一つ一つ神様にお祈りして聖書の箇所を見つけて解いていかれたものです。
摂理が「異端」かそうではないか。
それに関しては様々に意見はあると思いますが、私は摂理は「異端ではない」と考えています。
それはなぜでしょうか?
チョンミョンソク牧師は、「神様から見た異端」について聖書を元に教えて下さいました。
摂理と神様が仰っている「異端」を比べてみると、そこに当てはまらないのです。
聖書にはこのように書かれています。
「異端とは、イエス=キリストを否定すること」
「異端とは、キリストが肉体をもってくることを否定すること」
神様からみた「異端」とは、肉体を持って生まれたイエス様が「キリスト」だという事を否定することなのです。
摂理は、この二つとも否定していません。
チョンミョンソク牧師先生も、イエス様を本当に「キリスト」として信じ、愛し、仕えて修道生活を長い間されました。
私たちも摂理の御言葉で学んだから、2000年前に十字架で亡くなった偉大なキリストであるイエス様を信じています。
神様が聖書で仰ったことを一つ一つチョンミョンソク牧師先生が教えて下さったから、私たちは聖書に書かれていることが分かるようになったし、神様がどのように仰っていらっしゃるのかも聖書を通して分かるようになりました。
だから、私たちは聖書の言葉をとても大切にしています。
聖書を元にしたら、摂理の教理は「異端」の枠に入っていないのに、摂理が「異端」だと決定づけるものは何でしょうか。
「人間が決めた枠」でしょうか。
ガリレオ=ガリレイやエリック・サティ、晩年のピカソやラファエロが当世で「異端」だと人々に言われていましたが、現在ではどうでしょうか。
ガリレオは宗教裁判にかけられました。
しかし、今では科学が「地動説」を証明したので、キリスト教も「地動説」を認めるようになりました。
時代が進めば、何が正しいのかは明らかになるという事です。
歴史は事実です。
聖書にはこのようなことが書かれています。
国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、 一同にむかって言った、
「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。
そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。
そこで、この際、諸君に申し上げる。
あの人たちから手を引いて、その成すがままにしておきなさい。
その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。
まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。」
<使徒行伝5章34~39節より抜粋>
「人から出てきたものは廃れる。しかし、神から出てきたものはそうならない。まちがって神から出てきたものを叩かないように、あなたがたは気をつけなさい。」と律法学者ガマリエルが言っているのです。
この箇所で言いたいことは、結局、その当世では叩かれても、「神様の真理は 歴史が進行すればするほど証明される」という事です。
つまり、新しいものが現れた当世の時点で、最終的に何が残り「正しい」かを判断するのは難しいと言っているのです。
私は「摂理は異端ではない」と考えていますが、そう思わない方もいらっしゃるでしょう。
神様を信じる方もいらっしゃれば、信じない方もいらっしゃいます。
考え方も、信仰も、何を信じるかも、私たちはそれぞれ自由です。
だから、神様を信じない人に「聖書にこう書かれているから正しい」という話をいくらしたとしても、信じることは容易ではないと思います。
それどころか、むしろ拒否感を覚えられるかもしれません。
でも、神様を信じている人も信じない人も、これまで起こって来た「歴史」は否定しようがないのではないでしょうか。
2000年前に「異端だ」と大迫害を受けて宗教裁判で十字架にかけられ亡くなったイエス様。
当時は何が正しいのか分からなかったけれど、今は「イエス=キリストだ」と信じる人たちによって、キリスト教が全世界に広がるようになりました。
今となっては、「ナザレのイエスは異端だ」という人の方が少ないのではないでしょうか?
そのように考えると、摂理が「異端」かそうでないかも、1000年も経てば、その時には神様を信じている人も、そうでない人も、「歴史」を見て判断できるのではないかと私は思います。
<掲載している写真 Wikipédiaより引用>