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冤罪を生まないためにはどうすべきか

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冤罪事件、警察の調書を見て衝撃

摂理の農業人は明け方から主と共に有効な一日を過ごせて感謝します(*´▽`*)
教会の兄弟と過ごしつつ、家族と過ごしつつ・・・
いつも以上に神様を中心にした生に感謝します!
しかし、いつもながら明け方から忙しかったぁ(;^ω^)
やっと子供達を寝かせて一息です(;´・ω・)
いつもはバタバタの生活なので土曜の夜は普段出来ない事をする時間です!
その一つとして摂理の農業人は一つの報道記事を読みました!
冤罪となった事例ですが、その警察の調書を見て衝撃でした(;´Д`)
 

参考人失神、実況見分せず、調書を“作文” 【美濃加茂市長収賄疑惑】でまたも当局が暴走


藤井市長の事件でも、検察側は現場の実況見分は置き去りにしたまま、ストーリーに沿った調書作りに精を出した。会食に立ち会ったTさんが何度も呼ばれて事情聴取を受けた。警察では、捜査側の筋書きを認めさせようとTさんを責め立て、体調不良で失神するまで追及している。検察でも、現金授受は目撃していないと述べると、検察官は調書の中に、「仮に、お金を渡しているとするなら、私がトイレや電話などで席を外した際に渡しているのではないかと思います」という一文を潜り込ませて署名させたうえ、この調書でTさんが中座を認めたかのように主張。冒頭陳述でも、Tさんが席を外したことが確定的事実であるかのように書かれている。
・・・
衝撃ですよね(-_-;)
何が真実か・・・
警察、報道・・・
全てをうのみにしないで、真実な目を持っておられる神様の言葉を聞いて、判断して生きたいとおもいます
 

岐阜県美濃加茂市長の受託収賄疑惑事件 冤罪について

Yoです^^
最近、岐阜県美濃加茂市長の受託収賄疑惑事件で、裁判の結果、『無罪』と判決が出た事件をご存知でしょうか?
当時、美濃加茂市長の市長として最年少の28歳で市長選に当選し、『自分たちの町は自分たちで変えられる。ひとりひとりが行政に関心を持って、変えていくことが民主主義。市長になってからも、それを実践するつもりでやってきました。』と、若い情熱を燃やして市政に取り組もうとしていました。
熱く市政に携わろうとしていた矢先、美濃加茂市のプール水浄化設備導入の際に、当時市議会議員として担当していた藤井さんは、業者から事前に賄賂として30万円を受けとったのではないかとの疑惑により、逮捕、起訴され、現役市長として実に62日間に渡り拘置所に入れられ、ものすごく厳しい取調べを受けたと、NHKをはじめとして各種メディアで発表しています。
そして、検察側のあまりの取り調べの様子を表す一言「『自白しないと、美濃加茂市を焼け野原にする。』」ということを言われ、藤井さんは、自分が罪をかぶったら、町の人たちが苦労をすることもなくなるかな。と、精神的に追い詰められていくようになりました
しかし、そんな環境にいる藤井さんを励まし続け、客観的に事件を調査し続けた弁護団の継続的な弁護により、今回の事件は、2015年3月5日の名古屋地方裁判所で『無罪』という結果を勝ち取るようになりました
罪がない人が、無実を勝ち取るのは当然の結果だと考えますが、もし、有罪となってしまった場合、無実の罪を着せられた藤井さんと、裁判官、周りの人々はどのように思うでしょうか。いったい誰がその方の人生、市政の責任をとれるのでしょうか
 
無罪判決が出た根拠として以下が挙げられています。
①贈賄をしたとされる業者の供述に、聴取の度に内容が異なる点が見られ、事実の臨場感に欠ける
②業者は別の詐欺事件で捜査を受けていて、さらに罪に問われるのを避けようと捜査機関の関心を市長に向けさせるため虚偽の供述をすることは十分ありうる。供述以外の証拠を考慮しても現金の受け渡しがあったと認めるには合理的な疑いが残る
③検察の取調官と、起訴供述側の担当者で客観的ではない「共同作業」により、架空の供述が造られている可能性が非常に高い
(出典:名古屋地方裁判所および弁護団の見解より)
という内容です。
 
いずれも、詳しく客観的に調査内容と事実関係を把握してみると、矛盾点が有り、有罪とするにはあまりにも罪を立証する証拠になりえない。ということが見受けられます。
 
そして、何よりも
藤井さんが最後まであきらめませんでした
拘置所の中で、様々勉強するために40日間で70冊以上の本を読んだと話されたそうです。
そして、健康維持のために筋力トレーニングもし、拘置所を出られる際には6㎏も減量されて出てこられたそうです。
藤井さん本人の最後まで諦めない強い精神と、周りで支える弁護団たちの熱い心情の支え、そして客観的で継続的な事実調査によるすべての結果が、今回の『無罪』を勝ち取ったのだとYoは確信します。
 
鄭明析牧師はおっしゃいました。

鄭明析牧師の明け方の御言葉より©摂理

鄭明析牧師の明け方の御言葉より©摂理

さまざまな不義を切って、完全に行ないなさい!

 命をかけてやれば、「不義を切ること」が可能だ。』
(鄭明析牧師の明け方の御言葉より©摂理)

 
義でないことで訴えられ、汚名を着せされるようなことが有ったとしても、命をかけてやり続ければ、かならず自分にまとわりついた不義という濡れ衣を切ることができるということです。
まさに、この御言葉のように、藤井さんのように、
一人でも多くの方が、無実の罪から解き放たれることを、切に願います
 

冤罪とは

皆さんこんにちは☆Yoです^^
今日は『冤罪』について取り上げたいと思います。
皆さん、『冤罪』って説明できますか?
何となくは、できますよね^^
冤罪』って聞いて、どういうイメージが思い浮かびますか?
何か複雑な、良いようなどうなのか、もやもやする感じを覚える方が多いと思います。
世界大百科事典第2版(一部抜粋)によると、『冤罪の定義は次のように書かれています。(説明が長いので、分かりやすい部分を抜粋しています。)
えんざい【冤罪】
『無実の罪のこと。日常用語として、ぬれぎぬと同じ意味で軽く使われる場合もある。』
皆さん、分かりますか?
無実の罪』であり、『ぬれぎぬ』と同じ意味だということです。
もしも自分が、『無実の罪』で訴えられたらどうしますか?
もしも愛する人が、『ぬれぎぬ』を着せられて訴えられたらどうしますか?
そしてそのまま、有罪になり、死刑になったらどうしますか?
・・・
言葉にならない悲しみと怒りに、気が狂いそうになりませんか?
私なら、気が狂うほど慟哭するでしょう。世の中と裁判にかかわったすべての人を死んでも恨み続けるかもしれません。

実際、考えてみただけでも悲劇的なことです。
しかし、このような『冤罪』または『ぬれぎぬ』事件は、世界各地で起こっています。そして、この日本でも、起こっています。
え?日本でも!?
はい、日本でもです。
 
日本で起こった代表的な『冤罪』事件として、4つの事件が起きました。
1948年 免田事件 死刑確定後 32年6か月後に無実の判決を勝ち取る。
1950年 財田川事件 死刑確定後 31年11か月後に無実の判決を勝ち取る。
1954年 島田事件 死刑確定後 31年後に無実の判決を勝ち取る。
1955年 松山事件 死刑確定後 27年7か月後に無実の判決を勝ち取る。
(詳細は長くなりますので、割愛させて頂きます。)
 
すべて、無実にもかかわらず死刑が宣告され、そして、数十年を経て無実になった事件です。
このようなことが有ってよいでしょうか?
皆さん、「仕方ないことだよ。」と考えますか?
自分がそうなったら、愛する人がそうなったら「仕方ない」で済ませますか?
Yoは、済ませないと思います。
はっきりと、「事実を知るべきではないでしょうか

過去に起こった『免罪』事件を調べてみると、いくつかの共通点が出てきます。
①免罪事件のほとんどで、取り調べの際にものすごい拷問自白の強要がなされている。
②事件発生から死刑確定までの裁判期間が異常に短い
警察側が証拠を偽装していたと考えられることが多い。
事実検証と、目撃者の意見が相違していることが多い。
⑤容疑者の自白内容と、実際の司法解剖およびDNA鑑定の結果が一致しない
等々です。
少なくとも、以上5つの項目は『冤罪』事件に共通して起こっていることが多いです。
 
そして、今も、世界のどこかで『無実の罪』や『ぬれぎぬ』を着せられ、悲しい思いをしている方もいらっしゃいます。
『正義』とはなんでしょうか。
『正しいこと』とはなんでしょうか。
「いやいや、人間だから、間違いもあるさ。」で済まされる問題でしょうか。
済まされないですよね。
 
私たちは、ある物事に対して判断するとき、無意識のうちに、先に目にした、耳にした情報をもとに、ほぼ100%の確率で是非を決定しています。
皆さん、思い当りませんか?
「テレビでこう言っていた・・・」
「あの人からこう聞いた・・・」
自分で確かめることもなく、情報源の正当性も確認することなく、聞いたまま見たままで判断することがとても多いです。
しかし、それは正しい判断でしょうか?
知恵ある判断でしょうか?
 
聖書には、このような記載があります。
『だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう』
(新約聖書:コリント人への第一の手紙4章5節)
 
私たちは、どんな権威や権力を持っていたとしても、良くわからないままに判断して、先走ってさばいてはいけないんということです。足りない材料の中で判断しても、結果はうまくいかないことが多いことは分かりますよね。
鄭明析牧師はおっしゃいました。

鄭明析牧師の明け方の御言葉より©摂理

鄭明析牧師の明け方の御言葉より©摂理

どんなことをするにしても、いつも「主体と相手、前と後ろ、陽と陰」の二つのことを見て確認して行ないなさい。』
鄭明析牧師の明け方の御言葉より©摂理
自分が見えている側だけから考えて判断するのではなく、自分が見えていない側からも見て、二つのことを見てから確認して行いなさい。ということです。

また、『二つのことを確認することは、山の稜線から眺めることに例えられる。必ず、「稜線に立って」確認しなさい。』とおっしゃいました。
私たちは、『事実を事実として』、正しく見る目と心と考えを養わないといけないと感じます。一人一人が事実を事実として判断できるとき、この世界から『冤罪』も『ぬれぎぬ』も無くなると信じます。

もう二度と、『冤罪』で悲しまれる方がいなくなるように、そして、いま、『冤罪』で苦しまれている方がいらっしゃるのならば、早くその場から出て来られるように、Yoは日々正しい目を持ち続けることに努力し、祈り続けます。
愛をこめて。
 

逮捕と審判~真実に裁くことができるのは誰か~

皆さんこんにちは☆Yoです^^
皆さん「逮捕」と聞いて、どんなイメージが浮かびますか?

・警察
・犯罪者
・あ、悪いことしたな!?
・容疑者
・取調べ

等々、出てきますよね。
なかには、某有名アニメル〇ン三世の登場人物、銭〇刑事を思い出す方もいらっしゃるでしょうか?^^

私たちは、
逮捕」する側を「警察・検察」とか、
「逮捕」される側を「容疑者」と呼んでいます。
この「逮捕」の時点では、「容疑者」は決して「犯罪者」ではありません。
犯罪の可能性がある方に対して、調査をした上で裁判が行なわれ、初めて有罪無罪が決定されます。
正しく裁判が行なわれれば良いですが、時には、正しい裁判がなされない場合も起こっています。
即ち、冤罪ですね。
これは、無実の人を、誤って「逮捕」し、そのまま、裁判にて有罪としてしまった場合です。

聖書」では、罪を犯した人を裁くにあたり、とても良心的な説明がなされています。
簡単に言いますと、『「逮捕」した方を裁くことができるのは、裁こうとする「自分自身」に「罪」や「良心に引っかかること」が一つも無い方だけが、裁くことができる』。と言う事です。
有名な聖句を引いてみましょう。
『彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた実をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。』
(ヨハネによる福音書8章7節~11節)
 
この聖句の場面を簡単に説明しますね^^
ある罪を犯したとして、イエス様の前に連れてこられた女性をどのように裁けばよいか、民衆がイエス様に聞いてきた場面です。イエス様の答えは、『自分自身に罪がひとつもない者だけが、この女性を裁くがよい。』とおっしゃいました。
すると、不思議なことに、連れて来た女性を裁こうとしたすべての人々が、その場から全員いなくなりました。そうです。みんなにも、自分自身に罪があることを、みんな気づいたんです。それで、自分には、この女性を裁く権利も力もない。と悟って、いなくなったんです。
そして、イエス様も、罪を犯したと言われる女性を裁くことはなさいませんでした。
ただ一言、「私も罰しないから、もうこれ以上罪を犯さないように。」
とおっしゃったのです。
このイエス様の御言葉には、「逮捕」された方に対するものすごい情が込められています。
命が生きるようにとされるキリストの精神です。
逮捕」する側も、「逮捕」された「容疑者」を調べて裁く側も、また周りで色々と言う方々も、まずは自分自身の良心に手を当ててみて、自分の罪はないのか、良心に引っかかることをしていないのか、振り返りながら、「逮捕」された人について、よく分かって接する必要があると感じます。

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