人をさばくな。
自分がさばかれないためである。
あなたがたがさばくそのさばきで、
自分もさばかれ、
あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられるであろう。
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、
自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、
どうして兄弟にむかって、
あなたの目からちりを取らせてください、
と言えようか。
偽善者よ、
まず自分の目から梁を取りのけるがよい。
そうすれば、
はっきり見えるようになって、
兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
<マタイによる福音書 7章1-5節>
ハレルヤ、Riccaです。
今日はこの聖句をご紹介。
というのも…、
聖書って、物語じゃないんです。
「読んで終わり」っていう
エンターテイメント的な書物ではなく、
「人生の必須参考書」なんですよね。
だから、この聖句からも
必ず学ぶことがあり、
人生に活かすべきことがあります。
そう思うと、ぶあつ~い聖書も
ちょっとは読んでみる気にもなる…かも?!
閑話休題。
ここでは裁くという言葉が出てきますが、
何も裁判官の人に該当する話
というわけではありません。
裁く=判断する(批判する)
というと分かりやすいかも。
自分の考えで勝手に判断して、
人にああだこうだと言ってはいけない
ということなんです。
人間、自分のことは
意外と見えているようで見えていません。
けれど、不思議なことに
他人のことならよくわかるんです、長所も短所も。
いえ、
実はわかると思っているだけなんです。
私たちが見えるのは、「現在のその人」。
せいぜい「ちょっと前という過去」くらいでしょう。
その人の「未来」も「心情」も「本当の事情」も
わかることができません。
まさにそれは
「ただ神のみぞ知る」ことです。
だから、私たちは、
他人を見て、
自分の考えで判断してはいけないんですね。
文字にすれば実に簡単なことなんですが、
やってみると結構難しいことです。
知らず知らずのうちに
判断しちゃっているからです。
「こういうこと言う(する)なんて、
きっとこうに違いない」
って、今までの経験で
勝手に考えちゃうんですよね。
自分の思考の癖を直すのは
なかなか簡単なことではないのですが、
そういう癖が出るたびに修正して
直してしまわないといけません。
人間関係で誤解して
ぎすぎすして…なんて
人生もったいないですもんね☆
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