列王記下5章8~14節 神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。 そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。 しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっと私のもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、思い皮膚病をいやすのだろうと思った。ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。 こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。 その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。 ナアマン将軍はスリヤ王の軍勢の長、すなわち一国の軍隊の将軍でした。聖書には、主君に重んじられるほどの有力な人だったと書かれてあります。軍人としてとても優秀な人物だったことがうかがえます。 地位も名誉もあったナアマン将軍でしたが、重い皮膚病にさいなまれていました。 ナアマンの妻がイスラエルにいるエリシャという預言者のところに行けば皮膚病を癒してくれると教えたことをきっかけに、ナアマン将軍はイスラエルに足を運ぶようになりました。そして、エリシャを訪ねて家の入口まで馬と車で行きました。 エリシャは家の前に立っているナアマンに直接話したのではなく、使いの者を通してただ「ヨルダン川で7回身を洗いなさい。そうすれば清くなるでしょう。」という言葉を伝えただけでした。 しかし、ナアマン将軍はこの言葉を聞いて怒りました。なぜ怒ったのかというと、一国の将軍で地位も名誉も持っているナアマンにとって、直接会わないで人伝えで話されるということにプライドが傷つけられたのです。それから、川に7回入るだけで重い皮膚病が治るという話自体が信じられなくて、馬鹿にされていると思ったゆえに怒ったのです。 ナアマンはてっきりエリシャが患部に手を置いて癒してくれることを期待していたので、ダマスコの川よりも劣るヨルダンの川で清まるなんて話は到底信じられませんでした。 憤ったナアマンはそのまま国に帰ろうとしましたが、しもべが一生懸命止めました。 「あの預言者は大それたことをしなさいと言っているのではなく、ただ川で身を洗えと言っているだけのことです」と。 このしもべの言葉を聞いたナアマンは思いとどまって、ヨルダン川に行って、エリシャの言葉通りに7回川に入って身を洗いました。 1回、2回、3回、、、、、と洗っていきましたが、6回洗ってもいっこうに癒される兆しがありません。 ナアマンは騙されたのではないかと疑うようにもなり、これで7回目も治らなかったら、将軍のメンツが丸つぶれだと思い、また帰ろうとしましたが、またもやしもべに「川に入るだけですから最後に一回入ってから帰りましょう」と言われ、渋々、7回目もヨルダン川に身を浸して体を洗いました。 すると、ナアマン将軍の重い皮膚病がたちまち癒され、まるで幼な子のような清い体へ生まれ変わりました。 その後、ナアマン将軍はエリシャの元に行き、感謝を伝え、疑ったことの許しを請いました。 もし、ナアマン将軍がエリシャの言葉を聞いたとき、あのまま帰っていたり、ヨルダン川で身を6回しか洗わなかったりしていたら、皮膚病との闘病生活で人生を終えていたかもしれません。 しもべの「洗うだけだからやってみましょう」という言葉がなかったら、どん底の人生で一生を送っていたかもしれません。 「皮膚病を治す」という目的を果たすことが目的であり、名誉・プライド・メンツを大事にすることが目的ではなかったので、ナアマン将軍は将軍という地位やプライドに打ち勝ち、立派に目的を果たしました。
目的は目的だ人間は何かに取り組んでいると、意外と見落としがちなのが目的です。 知らず知らずのうちに自分のやりたいようにやってしまった経験などはないでしょうか。 随時、自分がやっていることに対して、目的を自問自答することが目的遂行への近道ですね。]]>
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