キリスト教福音宣教会(摂理)に来て、何が一番、変わったのか?
それは自分自身の価値について、知ることができたことです。
みなさんは自信をもって、自分自身が必要であって、誇ることができますか?
たいていの人は自分自身に自信をもっている人は少ないですよね。
一人一人が大切な存在であることを学びました。
と言うより、悟りました。
誰もが大切な存在であり、神様に愛された存在であることを。
伝道も結局は一人一人が神様に愛されているという事を伝えるために行なうことです。
今日は
月明洞(ウォルミョンドン)の紹介されている サイト とそこに掲載されている記事を掲載し紹介します。
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「何かが存在するということは簡単なことではありません」
すべてのことはそれほど易しくないので、鄭明析牧師は人々に松の木一本だけ植え替えて生かしてみなさいと言います。
木一本を一人で掘ってきて、植え、生かすところまでするのは易しいことではありません。
命を懸けた力が必要だし、100%の力を尽くさなければならないからです。
一人でしようとしたらもっと大変だから、数人で一緒に移すのが良いです。
10人でやれば10分の1、100人でやったら100分の1の力しか要らないからです。
自分が直接何かをしてみたことのない人はそれがどれほど大変なことなのか分からないので、自分が直接やってみて初めて、それが大変なことだと分かります。
松の木を掘ることもそうです。
松の木を直接掘ったことのある人は、松の木を移すことがどれほど大変なことか分かるのであって、やったことのない人はよく分かりません。
月明洞(ウォルミョンドン)自然聖殿の造景に参加していない人の中には、もともと山にあった松の木をそのまま生かして石を積んだのだと思う人もいます。
鄭明析牧師はそのように思う人たちに対してそうだと言ったりもしました。
ここの松の木は、手をつけず、本当に自然のまま残したと言えば、人々はまったく力がかかっていないと考えます。
しかし鄭明析牧師が木一本を掘ってきて植えるまでは舌をかむほどの努力がありました。
掘ってくることも大変ですが、ある木は植えるために石を4日間掘ってから植えたりもしました。
そのように大変な思いをして移した木は、幸い一本も枯れずに生きています。
枯れるかと思って適当にせず、真心を込めてやるからすべて生きたのです。
鄭明析牧師は木を移して植える過程を通して人々が「何かが存在するということは簡単なことではないということ」を分かってくれたらいいと考えています。
このように何かが存在するということはただでできることではなく、とても大変な中で存在するのです。
– 1998年5月12日鄭明析牧師の朝の御言葉より –
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みなさん自身が存在していること。
そのことがみなさん自身が神様に愛されていることの証明です。
どんな環境、境遇だとしても、様々なことを学び、生きていること。
必要なところを助けてくださっていることではないでしょうか?
もし、疑問に思われるなら・・・
御言葉を学んで見てください。