28歳で摂理の御言葉を学び始めて数年が経ちます。
摂理の御言葉だから、解決された人生の疑問や、私の問題。
本当に感謝感激の日々でした。
それは今も変わりません。
幸せいっぱいの反面、
摂理人生の体質に変化させるために、もがく日々でもあります。
摂理人生の体質=神様が望む、人間の姿。という事です。
考えれば、考えるほど、私が摂理の御言葉を学べるようになった事は、
奇跡としか言えません。
だから、感謝してもしきれません。
学生時代、哲学者ソクラテスを学び、『無知の知』という言葉から
「私も本当に無知だな」と自覚するようになりました。
では何において「無知」なのか?と思うようになりました。
すぐには答えは得られませんでした。
「無知」な自分は世の中の事について何もわからない。
世の中で起きている事の真偽はどこにあるのだろうか?
真実とは何だろうか?と考えるようになりました。
すぐには答えは得られませんでした。
そのようにしながら、26歳の時に病気になり
「幸せになりたい、と思って努力していたのに、むしろ全く幸せではない」
「病気にもなっちゃって……私が信じていたものは何だったんだろう、間違っていたんだ。」
「”よい方法” と言われた事を聞いて頑張ってみたけれど、これは幸せではない。」
「私が間違っていたんだ。よく頑張った事も沢山あったけれど、私は間違っているんだ」
と、
病気で横になって、天井しか見えない その視野の中で考えたのです。
それから1年後、妹が聖書を勉強し始めたと聞きます。
(妹は国際系の学校でしたし、聖書を読み始めた事はさほど気になりませんでしが、
本を読むことをためらっていた妹が、
何か”本”を読み始めたという事に喜んだ事を思い出します^^)
それからさらに1年後、28歳になった私。摂理の御言葉と出会うようになりました。
人間は知らなければ無知だ。
無知を抜け出すことが「復活」であり、「生き返ること」だ。
無知を抜け出すことが「光の中に出てくる道」であり、「神になる道」だ。
毎日学んで、無知を抜け出しなさい。
–鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師の御言葉より–
28歳という時は、大学生から御言葉を学び始める人たちからすると、
遅く感じる年齢ですが、
きちんと自分は「無知」であり「間違っているんだ」と自覚し、
「真実を求めて」今日があります。
高校生時代に聖書を貰ってから10年も経ています。
本当に無知だったな、と悔い改めしかありません。
何があっても諦めない神様の愛も強く感じます^^
だから私は「無知」であるという事を忘れてはいけないと思っています。
「無知」だと認めた時から、私の摂理人生が始まったと思うからです。
今日も「無知な人間」だと自覚し、
真理を教えて下さる聖三位と摂理に感謝します。
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