ドイツの哲学者デカルトをご存知だろうか!?
名前は知らなくても、彼が残した言葉
【我思う 故に 我あり】
は有名なので聞いたことがある人も多いだろう。
デカルトは、「学問において確実な基礎を打ち立てよう」とするなら、
【少しでも疑わしいものはすべて疑ってみる】ことだと解いた。
「感覚は時として誤るものだから信頼できない」と考えた彼は
【自分がいまここに、上着を着て炉端に座っているということ】さえも、
【これが夢でないという絶対の保証はないから信じられない】と考えた。
だが、このように考える【自分自身の存在】は【疑うことができない】という考えに至った。
このようにして、
「我思う、故にわれ在(あ)り」
という言葉が出てきたのだ。
デカルトは、「自分の感覚は疑いつつあるのだから【不完全な存在】だしかし、【自分の存在】という疑うことができない【完全な観念】は、【完全な神】から来たに違いない」と結論づけた。
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デカルトのこの考えを通してまっちゃんは考えた。
【不完全な人間】にどうして【完全な神様の概念】が入っているのだろう?
それについては、お師匠が【聖書】をもとに教えてくれた。
聖書の一番初めには神様が天地を創造した過程が【創世記】として書かれている。
これは、全ての万物の創造が神様からなされた事を表している。
家で金魚を飼う時には、水槽や水草、水や餌などの全て必要な環境を備えてから、最後に金魚をその中に入れて育てるように、
<創世記1章26~27節>には、
神様が地球上の全ての土台を創造した後、一番最後に【人間】を創造される過程が書かれている。
そして、神様が【人間】を創造するときに仰った言葉がある。
「我々のかたちに、我々にかたどって人を創ろう。」
<創世記1章26節>
この箇所から、
神様は御自分の形に似せて人間を創造された事が分かる。
物を作る時には、作者の考えや意志がそこに現れるように、
神様が創造されたものには神様の性質が宿っている。
だから、宇宙や山や海などの万物を見て
「神秘さ」や「雄大さ」を感じるのは、
そこある神様の性質を、
知らず知らずのうちに私たちが感じているからだと教えてもらった。
特に【人間】は【神様の姿形】に似せて創造されたので、
【神様と通じる】事ができるように創られており、
神様のように無限に成長できる、最高の祝福を下さっている。
そうお師匠が教えてくれた。
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お師匠に教えて貰うまでは、
「神様」に近づくことなんて考えもしなかった。
【神様に似て成長できる祝福】を自分が受けていたなんて!!!(* ̄□ ̄*;
知らずにそのまま生きていたら、きっと
「どうせできない・・・」(ノ_・、)
「人間なんて完全じゃないから、これが当たり前だよ・・」(T ^ T)
と諦める事も多かっただろう。
<完全な考え>は「完全な御言葉」から来る。
早く神様と御子の偉大な御言葉を聞くことで、
あなたの心の畑に「完全なもの」を蒔き、
それによって「完全な行ない」をしなさい。
蒔いたとおりに刈り取る。
【祝福】を【祝福】として受けられる事、
そのために努力できる【希望】と【喜び】を教えて貰った事に
心から感謝したまっちゃんでした(´∀`*)☆。.:*・゜