まっちゃんは、大阪教育大学の2回生の冬に摂理の御言葉に出会った。
当時、仲の良かった先輩がまっちゃんの家に遊びに来た時に御言葉を教えてくれ、それが凄く面白かったので聞くようになった。
バイブルスタディ(聖書の基本的な御言葉)を聞いて14年たったが、本当に摂理の御言葉に出会えたことに感謝している。
何故か?
まっちゃんの教師生活になくてはならないものになったからだ。
@sozaishu.seesaa
まっちゃんは、学生の頃にふとある問題について頭を悩ませるようになった。
(自分が考えている善悪って、周りの人と一緒だろうか?)
交通ルールを守ること
殺人をしない事
盗みをしない事
誹謗中傷をしない事
そういう「基本的な事」は暗黙の了解で共通認識しているように思う。
でも、細かいところはどうだろう??
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ある日、
仲の良い友だちと他の友だちが喧嘩した。
@girlschannel
些細な言い争いだった。
その時に思った。
自分は「仲の良い友だちの肩をもつような考え方・判断」はしなかっただろうか?
相手の言い分も聞いて、「善悪」を正しく公平に判断しただろうか?
(う~ん・・善悪の判断って、自分なりなんじゃ・・・・)
そう考えると、出口のない問題にぶつかったような気がした。
有名なアメリカの教師が書いた
「ルールブック」
という本を読んでみた。
@www.kyoeikasai
でも、そこに書かれていたのは
「友だちが意見を言う時は相手の目を見よう」
「親に感謝しよう」
「周りの物をきれいにしよう」
などなど・・・
一般的な事だった。
細かい事はそこに書かれていない。
そりゃあそうだ。
些細な喧嘩なんて日常茶飯事だし、それをいちいち本にしてたら切りがない。
(じゃぁ、教師になった時にどうしたらいいの?)
「絶対的に変わらない基準」
「全ての人にとって正しい善悪の判断」
それがとても知りたかった。
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それから、熱心に授業を聞くようになったが、
いくら教育大学の授業を聞いても、
教授に質問しても、
「細かい所は時と場合によってさまざまだよ」
「現場で自分で学びなさい。それが経験だ」
と言われた。
確かにそうだ・・・
100%正しいものなんで無いんだな・・・
(それなら、いろいろな人の話を聞いて、その中から「良いな」と思うものを自分でピックアップしよう)
そう考えるようになった。
そんな時に出会ったのが摂理の御言葉だ。
@labaq.
まっちゃんにバイブルスタディを教えてくれた人が
「聖書はね、人間の手で描いたものだけど、神様の考えを霊感で受けて書いてあるから、著者は神様なんだよ。」
そう言って引いてくれた聖句
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
<テモテ第一の手紙3章16節>
まっちゃんの心にズドンと来た。
(そうか、聖書を学べば「100%の判断基準」が分かるんだ!)
それから、毎週御言葉を学び、聖書の話を聞くたびに驚いた。
何に?
「神様から見た判断基準」に。
@pixta
(え?これもいけないことなの??)
(@_@;)‼
今まで当然のようにしてきたことが、神様の視点から見れば「悪」だと知って、自分の認識を覆された。
周りの人も当然やってるようなことまでそうだったりするから、
(本当に、学ばないと分からなかったな・・・・)
驚嘆するばかりだった。
また、御言葉の「善悪」に合わせて、20年間近く培ってきた既存の認識を変えるのが本当に大変だった。
生活の中で習慣的に行ってきたこと、良いと認識してきたことを一つ一つ神様の善悪に合わせて直していく地道な作業。
そのようにして全てのバイブルスタディ(聖書の基本的な御言葉)を学んだ。
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@sore.hontonano
ある日、同じゼミの友だちに放課後呼び出された。
「まっちゃん、ちょっと来て。」
「どうしたん?」
「摂理の人と仲良くしてるでしょう?」
「うん。」
「あそこ、行かない方が良いよ。」
(⁉)
まっちゃんは、その子が摂理の御言葉を聞いているなんて知らなかった。
その日、初めて知ったのだ。
そして、その子からありとあらゆる摂理の悪評を聞いた。
「私を教えてくれたお姉さんから聞いたの。私も、もう行ってないよ。」
その話を聞きながら、「不思議」に思った。
(なんでこの子は、聞いた話を「鵜呑み」にしてるんだろう??)
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@www.irasutoya
まっちゃんは、小学校の時に凄く痛い思いをしたことがある。
「噂話」だ。
まっちゃんの覚えのない噂話を友だちに広げられて、真実じゃないのに周りの子はそれを信じて嫌な事を沢山言ってきた。
その時にこう決心した。
(絶対に「噂話」は信じない!(TДT))
だから、その子にもこう言った。
「教えてくれてありがとう。
あなたはそう考えるんだね。
でも、私は摂理が正しいのか、
あなたが言うような所なのか、
自分で見て、
自分で聞いて、
その後で判断するよ。」
「そう・・・。」
その子は、もう何も言わなかった。
@sozaishu.seesaa
それから14年。
自分の変化した姿を見ながら、
(やっぱり、この御言葉は正しい!)
(こんなに自分を良く変化させてくれる教えは他にない!)
そう日々確信する毎日だ。
教師生活の中でもそうだ。
@www.irasutoya
まっちゃんが初任者の時、
二年生の担任を持ったが、ADHDの男の子がいた。
彼は、ADHDの特性が一年生の時は目立たず、診断もされていなかったし、周りの教師もそのような目で彼を見ていなかった。
だから、初任者のクラスに入れたのだ。
しかし、二年生になって彼の言動が顕著になった。
友だちに暴言を吐く。
はさみや椅子を投げる。
急に教室を飛び出す。
物を隠し、嘘を付く・・・
その子が起こすトラブルに翻弄され、毎日夜遅くまで残って様々な事後作業に追われた。
朝は7時に学校に着き、夜は10時まで居残りをして帰る毎日だった。
@www.mow-shop
そんなボロボロなまっちゃんの姿を見て、教育指導をしてくれていた先輩教師はこう言った。
「あなたのやり方が悪いのよ。私だったらもっと良くやるわ。」
「見て。私の言う事は良く聞くじゃない?」
確かにそうだった。
その男の子は、その教師の前では驚くほどいう事を聞いた。
@www.sisyunki
でも、まっちゃんの目から見たら、「怯えている」ように見えた。
(ああ・・この子、この先生が怖いんだ)
聖書にはこう書いてあった。
「神様を愛するように、隣人を愛しなさい」
「教える者ほど、仕える者になりなさい」
武力で押さえつけるのは違う。
恐れ、怖がらせていう事を聞かせることも違う。
そう思った。
たとえ、先輩教師が何を言っても、
まっちゃんの頭の中にある神様の言葉一つ一つが
「これは違う」
「これは正しい」
と判断してくれた。
その判断基準があったからこそ、今の自分がある。
そのようにしながら、一年間、初任者として過ごした。
最後の日、校長先生に呼び出された。
「あなた、教師向いてないんじゃない?」
そう言われた。
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
衝撃的である。
でも、まっちゃんは確信があった。
聖書にはこう書いてあるからだ。
「神様は、あなたに乗り越えられない試練は与えない」
どんなに苦しくても、
どんなに上手くいかなくても、
(絶対にこの期間を過ぎたらもっと成長できるんだ!)
そう何度も自分に言い聞かせながら、辛い時も苦しい時も、泣きながら「力を下さい」と祈り求め、歯を食いしばって毎日過ごした。
だから、たとえ校長先生にそう言われても、心は全く揺るがなかった。
@tigpig
それから10年。
教師を続ける中で、一番自分が成長できたのは初任者のあの一年間だったと思う。
一番辛かったのもあの一年間だ。
しかし、その経験があるから、どんなに屈強な状態になろうと、
モンスタープアレンツに怒鳴り散らされて、家庭訪問で夜中0時を超え、45分間かけて自転車で家に帰る事になろうとも、
(あの時よりもましだ)
そう思えるようになった。
そのように自分を奮い立たせてくれたのも、超えられないような困難な状況を乗り越えられるようにしてくれたのも、全ては神様の御言葉だった。
だから、まっちゃんは「この御言葉が正しい」とはっきり言えるし、その御言葉を教えて下さったお師匠を尊敬している。
何故か?
人の精神はその言葉に宿るからだ。
お師匠が語る摂理の御言葉には矛盾がない。
そして、お師匠は一つ一つ「実践」してから御言葉を神様から貰っているから、御言葉にお師匠の精神が滲み込んでいる。
お師匠が「敵を愛しなさい」という言葉を神様から貰った時は、
到底愛せない敵を、武器を全て捨てて抱きしめた時だった。
一つ一つの御言葉が、切実なもがきと壮絶な努力の中で生まれている。
その人の行いを見れば、その人の人格が見える。
まっちゃんは14年間「お師匠の姿」を見ながら、
「これほど真実な教師はいない」
そう思った。
@flywithr
人生最高の師
最高のメンターに出会えたことに、心から感謝する。
@sozai-good