新約聖書のマタイによる福音書18章には、このような話が載っている。
その時、ペテロがイエスのもとに来て言った。
『主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、幾たび赦さねばなりませんか。七度までですか。』
イエスは彼に言われた。
『私は七度までとは言わない。
七度を七十倍するまでにしなさい。』
ここから、イエス様のたとえ話が始まる。
『それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
決算が始まると、一万タラント(六千億円)の負債のある者が王のところに連れられてきた。
しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部を売って返すように命じた。
そこで、この僕はひれ伏して哀願した、
「どうぞお待ち下さい。全部お返しいたしますから。」
僕の主人は哀れに思って、彼を赦し、その負債を免じてやった。』
6000億円というあまりにも大きな借金を免除してもらった幸運なこの僕は、その後どうしただろうか?
聖書には続きが書いてある。
『その僕が出て行くと、百デナリ(百万円)を貸している一人の仲間に出会い、彼を捕まえ、首を絞めて「借金を返せ」と言った。
そこでこの仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」と言って頼んだ。
しかし、彼は承知せず、その人を引っ張って行って、借金を返すまで獄に入れた。
その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心を痛め、行ってそのことを残らず主人に話した。
そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、
「悪い僕だ。私に願ったからこそ、あの負債を全部赦してやったのだ。私が哀れんでやったように、あの仲間を哀れんでやるべきではなかったか」。
そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引き渡した。
あなた方銘々も、もし心から兄弟を赦さないならば、私の天の父もまたあなた方に対して、そのようになさるであろう。』
この箇所を読むと、ドキッとする。
主人が「神様」であり、負債を赦された者が「わたしたち」と考え、自分の行ないを振り返ってみる。
神様の前で沢山の罪を背負っていたのを赦していただいたにもかかわらず、自分の周りで起こった出来事に対して赦さずにいることがないだろうか?
些細な事で怒っていなかっただろうか?
大事な事を見失っていなかっただろうか?
また、御言葉の中でこのようにおっしゃたこともある。
「数十億の借金をあなたが許してもらったのに、今日食材を買うお金がないからと嘆くのか。
借金が全て無くなったら、あなたは稼いだ分だけ自分のお金として使えるようになったのではないか。
これが以前に比べてどれだけ幸せな事か。
一生自分が解決出来ないような大きな問題を解決してもらったのに、些細な事にとらわれてその喜びがない。
あなたは神様の前で救いを受けたのに、そのように生きるのか。」
本当にそうである。
なんでこんなにも目の前の出来事に揺れるのだろうか?
聖書で人間を「揺れる葦」に喩えた箇所があるが、本当にその通りである。
風が吹くまま左右に揺れる葦のような人間の心。
「そうではない。」
「大事なことは、あなたの霊が永遠な救いを受けたことだ。」
「永遠な生を解決してもらった事が、何よりも大きなことだ。」
そうお師匠に学んで、ハッとさせられた。
「生きる目的とは何か?」
あなたなら、何と答えますか?
<永遠なもののために生きる実践>が、本当に貴重で大きい実践だ。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より@ www.god21.net