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伝道された経緯と伝道に対して思うこと

摂理の伝道とは?岩手から上京して伝道された話 明日から7月。 初めて摂理の礼拝に参加したのが、7月だったので 来月には摂理に来て7年目に突入ということになります。 光陰矢の如しとはこういうことを言うのですね。   元々信仰のなかった人がどのようにして信仰を持つようになったのか、 自分が導かれてから初めて知るようになりました。 つまり、伝道して信徒を増やすのはどうするのかということです。 実体験を回想しながら摂理の伝道について紹介します。

目次

伝道したいと思っている摂理人

「伝道したい」 と思っているのは事実。 私もそう思っています。 ただ、なぜ伝道したいのか。   摂理に来て幸せだと心から思っていて、 それを伝えたいからです。 感動したものを誰かに伝えたいと思うのが人間の性ではないでしょうか。  

会った瞬間に福音を伝えることはあまりしない

伝道したいという思いから福音すなわち御言葉を伝えていくわけですが、 初めて会った人に御言葉を伝えることは極稀です。 私の場合、大学1年生の時にサッカーサークルの中に摂理の人がいて、 そこから仲良くなって、御言葉を聞くようになりました。   これだけ聞くと、騙してスポーツに呼び込んで伝道しているんじゃないかと思うかもしれません。 決してそんなことはありませんでした。  

隠しているわけではない

日本人の宗教に対する認識観は決して良くありません。 宗教が関連してくる者に対して、怖さを感じるようにフィルターを無意識にかけてしまっているのが、悲しきことですが現状です。 全ての人がそうではありませんが、マジョリティーと言ってもいいでしょう。   だから、フラットな認識観で御言葉を聞いた人たちがどんな人たちなのかを見てもらいたいのです。 御言葉がこんなに良いものなのに、宗教という言葉のフィルターがかかってしまうとどうしても懐疑的に捉えてしまう恐れがあります。 私も初めから御言葉を紹介されていたら、きっと排斥していたと思います。 なぜ御言葉を受け入れられたのかと言えば、 御言葉を聞いていた人たちの接し方や生き方に愛が溢れていたのを感じたからなんですよね。  

強制的に伝道はしない

その人の人となりを分かった上で伝道していくわけなんですが、 あくまで摂理人は、御言葉を紹介する程度です。 絶対に強制はしません。 紹介して承諾した人にだけ教えていくのです。   営業も一緒だと思いますが、相手のニーズに合わないものを紹介するはずがありません。 人生の問題、生きる目的を求めていれば、御言葉はニーズに合っているということになります。   最後は自分から求める人が伝道されるというわけです。 私は求めました。紹介されたのは最初の一回だけ。 バイブルスタディー(BS)を教えてもらいましたが、求めて週7で聞きに行っていたことを鮮明に覚えています。 そして、とても楽しく学んでいたことは鮮明に脳裏に残っています。  

結論

機会を与えてもらえるけど、御言葉を聞くかどうかは本人の自由。 よく摂理は勧誘活動をしていると耳にしますが、勧誘でもなければ強制でもありません。 少なくとも私が知っている範囲の話では。   摂理に来てから7年目になろうとしています。 田舎から東京に来て本当に良かったと思えるのは、 摂理と出会えたからだと確信しております。  

摂理の栄光 スポーツと伝道

ハイサイ♪ 広島は連日氷点下の朝を迎えています(^-^;) 沖縄に逃亡したくなる今日この頃です(;^_^A 2015年が始まり、早くも1月の折り返しにきました! 摂理の農業人は教会、仕事、家庭と毎日をバタバタと過ごしていて、神様に感謝と栄光を帰せていないと、明け方悔い改めの祈りをしました(;>_<;) なので、今日はいつも以上に神様、聖霊様、御子と主を意識し、感謝と栄光を帰して過ごします♪ この機会に栄光を帰する事について考えてみました(*^.^*) 摂理の農業人が摂理に伝道されたのは、大学4年生の時です! 周りのキャンパス生たちは大学1、2年生の頃から摂理を走っていました! そんな摂理の農業人に教会の先輩が、「摂理に導かれる前からも神様が一人一人に個性を与え、育てて下さった。それを活かして栄光を帰したら良いよ。」とアドバイスを頂きました♪ 摂理の農業人は個性について考えました… 決して、頭の良い方では無いので、何だろう… 考えました… 祈りました… 行っていく中で、幾つか分かってきました! 1つはスポーツですね! 何かに特化してはいませんが、平均的にスポーツは好きです! …? 好きなだけかい!!! いやいや、好きな事も大切です(*^O^*) 体の大きさと力が人並み以上なので、内容によっては人並み以上には出来ます♪ もう1つ神様が摂理に導かれる前に育てて下さった個性は伝道です! 体育会の部活にいた時の新入部員の獲得数は毎年摂理の農業人がダントツ1位でした! もちろん、伝道と勧誘は違います! しかし、摂理に導かれるのがキャンパスギリギリの農業人は導かれる前に育てて下さった個性を活かして、伝道をしました(^-^ゞ もちろん、最初はうまくいかなくてかなりもがきました(;´д`) その中で、神様が育てて下さりました♪ 肉の世界で育てられ、神様の摂理歴史で育てられ、摂理の農業人は幸せ者です(*^O^*) 今度は行いで感謝と栄光を帰していきます!!!  

伝道と勧誘について

私は「伝道」があまり好きではありませんでした、いや、今も実は抵抗感があります。 それは、摂理でよくやる「路上伝道」というやり方が自分にとって「どう考えても怪しい」と思うから。 たぶん、「摂理がカルトだ」っていうサイトを見て一番影響を受けているのは、この部分ではないかなと思います。いさやってみるとそれほど不自然ではない、と感じますが。 でも、基本的に摂理で伝道している人たちの大半は「摂理に来てよかった!」と思うから伝道するのです。これは割と自然な行動ではないでしょうか?なぜなら、「自分がいいと思ったものを人に勧めている」わけですから。あなたも一度は自分がおいしいと思った食べ物を友達にオススメしたことがあるでしょう?これと同じです。 …それを見ず知らずの人にする、というのは正直どうなの?という話ですが、アメリカに留学したことのある人によると、アメリカでは「スーパーで買い物しているときに、ばったり会った見ず知らずの人と仲良くなって、夜にはその人のホームパーティーに来てた」ということがあるのです。 つまり、摂理に限らず声をかけられたときは「外国の人に声をかけられた」と思って相手をすればいいと思います。その話を聞いてよかったら仲良くなればいいし、嫌だなと思ったら逃げればいいんじゃないでしょうか?無視をされると傷つくので一言でも話してくれると助かります(T_T) 最初に「私は伝道に対して抵抗がある」という話をしました。 実はこれ、摂理に来てから教会の先輩と一緒に伝道したことが要因なのかもしれません。 私は摂理に来て間もなく「摂理がカルトだ」という記事を見てしまって、祈りが叶ったことや聖書の話、人々の性格の良さなどの要因で摂理からは離れなかったのですが、内心「カルトに入るなんて…」と自己嫌悪していました。 そんな状態で伝道してると、終わったあとに 「あぁ、私、人を騙しているんだ。 カルトなのを隠して人に声をかけて…」 という考えが。それでさらに自己嫌悪…。 おそらく、これがトラウマになっているのかもしれません(笑) あの時は本当に人を騙している、と思い込んでいました。 本当に神様に悔い改めます(T_T) それと、救われた実感も、人を救いたい神様の想いも、そもそも救いの概念を理解していなかった時の私は伝道が「教会に人を連れてくる」という「勧誘」だとも思い込んでいました。 サークルの勧誘を思い浮かべるとわかると思いますが、勧誘というのは「サークル(とかどこかの団体)の人数を増やす」ことを目的にするじゃないですか?こう考えると、私は「BSを伝えて来なくなるくらいなら、伝えずに教会に連れてくればいいのでは?」とかなり危ない考えをしていました^^;無知って怖い。 摂理の場合、伝道の目的は人を増やすことではなく「その人が神様を信じて救われる」こと、「正しく生きられるようにする」ことです。だから、「自分たちがどういう信仰をしているのか、摂理に来たらどう生きるべきか」はBSの段階で教えているのです。 鄭明析先生の御言葉、実践、そして摂理に来てからの生活の変化。 それらを経験して今では私も「本当に摂理に来てよかった」と心の底から言うことができます。 なので、今では良心が傷つくことなく「摂理においでよ!」と人に話すのです。  

聖書コラム:伝導?いいえ、伝道です。

こんばんは、satoです。 今日は摂理でよく使われる言葉「伝道」について話したいと思います。 「摂理でよく使う」と言っても、摂理以外にもキリスト教の教会やその他の宗教でもよく使われる言葉です。 聖書にもちゃんとあります。伝道の書として。 しかしながら、聖書文化に馴染みのない日本人にとっては聞き慣れない言葉。 最初聞いたときに「伝導」と書き間違えるのは日本摂理10大あるあるの一つです。じゃあ、あと9個はなにか…それはまぁ、おいおい書いていきましょう(笑) でも、「伝導」の方が聞き慣れていますよね?特に理系の人は。 300px-Meissner_effect_p1390048.jpg (wikipediaから。) 磁石が浮くのでお馴染み、超伝導。みなさんも一度液体窒素を使って超低温の実験をする際に見られると思います。この現象。ちなみに、北大のオープンキャンパスでは結構な割合でこの実験がされているはずなので、見ていない人は8月辺りが見に行けるチャンスかも。 若干脱線しましたが、それでは「伝導」というのはどういう意味か、と言いますと。 伝わること。熱や電気が移動すること。 だそうです。そのまんまですね。ちなみにソースは「コトバンク」から。 この漢字がよく使われるのは熱いものから冷たいものへ熱が移る「熱伝導」や電気が流れる「電気伝導」。どちらも科学ですね。 では、摂理など宗教でよく使われる「伝道」とはどういう意味なのか、というと…。 教えを伝え,広めること。宗教,特にキリスト教において,その教えを未知・未信の人々にのべ伝えて,信仰を促すこと。布教。宣教。 です。こちらも「コトバンク」 から引用しました。 つまり、伝道とは「自分たちが信じていることを教えること」なんです! 宗教でなくても、オタク文化では自分の好きなアニメやラノベを持ってきて友達に紹介することを「宣教する」とか言いますよね。これと同じように自分がいいと思うことを教えることが「伝道」というわけです。 さてさて、「宗教、特にキリスト教」と書いてありましたが、どうしてキリスト教は伝道が盛んなのでしょうか?それは、聖書にこう書いてあるからです。 ダニエル書12章3節 賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。 使徒行伝1章8節 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。 イエス様も生きている間ひたすら神様の御言葉を伝え、その弟子たちも命を賭して教えられた御言葉を伝え、伝導し続けました。その土台の上にキリスト教があるのです。 20150105_611156.jpg (マンデーから。) メシヤ・イエス様も、「一人」だけが神様を信じ愛して、 その御言葉を守って行ない、神様がおっしゃったことを行なったなら、 一人も伝道されなくて、2000年間<新約の救いの歴史>は広げられなかっただろう。 それによって、神様も地球世界に<御心>をお広げになることができなかっただろう。 イエス様も弟子たちもイエス様を信じる人たちも、「殉教」してまで伝道したので、 神様が地球世界に<救いの御心>をお広げになることができた。 そのように、私たちも摂理の御言葉を伝えていきたいと願う、今日このごろです。  

摂理人と鄭明析先生との出会い。~satoの場合~

こんばんは、satoです。 突然ですが、今日は私が鄭明析先生とはじめて出会ったときについて話したいと思います。 私が摂理の御言葉を聞いたのは大学生のとき。 私は大学の友達から伝道され、御言葉を聞き始めました。ちなみに、この友達もサークルの仲間から伝道される、というちょっと不思議な同時性があります。 私が御言葉を聞いているときは、正直考えが肉そのもので(苦笑) 「とりあえず肉体が生きていればいい」という上昇思考のない人間でした。ただ、人とのコミュニケーションがうまく取れず、自分のアイデンティティーに悩む、ということはありましたが、それ以外は霊的な言葉ガン無視でした。ごめんね、私の霊。 そんな私なので、御言葉で「もっと自分を良くしないと」とか「霊のためにもっとよく生きよう!」という摂理の御言葉を聞いたときは…正直受け入れがたかったです。正直面倒に思ったから…ということもありましたが、根本的には「自分をいじめ、卑下し、自暴自棄する」思考が強く、そのせいで御言葉でも「自分が否定されている」ように聞こえたからです。 本当に、この「否定的思考」はとても強く、放っておくと「私に対して悪い感情を持っているだろうな…」という考えを人に対して抱いたり、人の好意に対して「これでこの人を気分悪くさせたら嫌だな…」と思って、逆に萎縮してしまったりしてました。あと、悪い情報を受け入れやすく、疑り深く、常に不安と疑心暗鬼に陥っていました。軽い「雛見沢症候群」状態(ゲーム「ひぐらしのなく頃に」に出てくる仮想の病気、不安と疑心暗鬼に苛まれ、ひどくなると見るものすべてが敵のように感じられたりする)。 しかしながら、霊界の話や神様の愛の御言葉にはとてもよく反応しました。知的好奇心がとても強いのと、愛の感覚にはとっても敏感だったので。すごく愛を求めていました。 それと、人に言われたことはとりあえずやる(やらないとめっちゃ申し訳なくなるので)ために祈りなどもそれなりにしていて、自分なりですが「神様に呼び掛ける」ということをしていました。 そんなこともあってか、少しずつ御言葉や摂理のことが好きになっていました。このときはまだ摂理のこと知らなかったけど。鄭明析先生のことを知ったのはその時でした。 鄭明析先生と私がはじめて出会ったのは…ネットでした。そう、「私が摂理という単語を興味本位で」ネットで検索して、色々見たのです。正直…第一印象は最悪でした。 先生のことはさほど気にならなかったのですが、摂理に対して「こんな悪いところなんだ…」と思いました。(繰り返しますが、私はこのときまで自分のいたところが摂理だと知らなかったのです) よりにもよって宗教に入るなんて…。それもこんなに悪く言われてるところに…。 こんな気持ちがぐるぐるしてました。 しかしながら、「お祈りが成された」ということを体感していたので、「この御言葉は(少なくとも祈りについては)正しい」と思い、続けて御言葉を聞くことにしました。 これは今でも私の中で「最良の選択だった」と誇れるところです。 こんな感じで、私と鄭明析先生は最悪の初対面を迎えます。しかも、そのとき鄭明析先生はすでにあの場所にいて私と先生が直接会うことができませんでした。 そんな私が、鄭明析先生の本当の姿を見たのは…御言葉、そして祈りでした。 私は否定的思考が強かったので、御言葉も正直受け入れられないことが多かったです。しかし、それでも摂理の先輩がたくさん私を助けてくれて、共に祈ってくれて、支えてくれました。それから、あることがきっかけで私は「自分の心」と向き合うようになりました。 怠け思考と否定的思考が強く、思うように進まなかったですが、その祈りの中で私は神様、聖霊様、御子と共に「鄭明析先生」の愛が感じられるようになりました。不思議なことですが、私の気持ち、過去辛かったことなど…すべてを鄭明析先生が聞いてくださっている、という感じがしたのです。 それは後に「鄭明析先生があの場所で私(たち摂理人)のために祈ってくださっていたから」だということがわかりました。そのときに私は鄭明析先生の真の姿、「愛の姿」を見たのでした。 あのとき、先生が祈ってくださったから、今の私がいます。まだまだ足りないところはあるし、否定的思考が出るときもありますが、少しずつ元気になっています。本当に私を導いてくださったことに感謝します。]]>

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