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摂理で起こる洗脳とはいかに

悪い習慣を振り返る。 例えば、「明日の紅白でLinked Horizonが出るけどどんな風になるんだろう…気になる…」という考えが浮かぶのも習慣。 「コミケ、昨日からだったんだ。一度現場を見てみたい…」と思うのも習慣。 言葉の意味より、リズム・勢い・語呂合わせetcなど「楽しそう」な方を見てしまうのも習慣。 「あ、アカギ最新刊出てる。そう言えば鷲巣はどうなったの?地獄に行ったらしいけど…あ、あとワンピースはどうなっているの?」とコンビニで本棚を見て浮かぶのも習慣。 以上、元オタクだった私が現在抱えている悪い習慣である。 基本的に子供の時から「漫画やアニメを見続けた」ために、常に「マンガのような言葉」に反応してしまう。そのために、ツイッターとかでもそういう言葉に反応して見てしまい…以下無限ループ。 こういう悪い習慣をなくすには、計画的に見ないことを続けなければならないし、良い言葉を見続けなければならない。洗脳?むしろ、洗脳できるならしたいくらいだ。なんせ、こういう悪い習慣のために「自分を成長させる時間」が奪われるから。それで、大きいことができる人でも小さい人生を生きるしかなくなる。 だから、脳が柔らかい今のうちに悪い習慣を直さなければならない。私は頭が硬いって?それならなおのこと早くしないと。だって、年をとればとるほどもっと硬くなるのだから。  

摂理と人間の尊厳。

こんにちは、satoです。 ここしばらく「人種差別」とか「貧困」に関する記事をマーティン・ルーサー・キング・ジュニアとかネルソン・マンデラに関連して書いています。もともと私は「差別」が嫌でそれをどうにかしたい思いもあって色々調べたからなのかもしれません。今日もその話題から。 皆さんは「ローザ・パークス」という方をご存じでしょうか?彼女はモンゴメリー州で白人から差別を受けましたが、それに対して毅然な態度で抵抗し逮捕されました。この事件から、キング牧師によって「モンゴメリー・バス・ボイコット」が始まり、アメリカの人種差別法が撤廃されるに至りました。 そう、彼女の「人間の尊厳を守る」行動がキング牧師たちを動かし、歴史を作ったのです。 彼女は仕事の帰り道にバスに乗っていました。そのバスは黒人席と白人席に分かれていて、その日黒人席はいっぱいだったので、彼女は白人席に座っていました。 彼女の住んでいるところには、白人が座れないときは白人席にいる黒人が譲らなければならない、という法がありました。…ただ、生まれた血統の違いだけで。自分ではどうしようもないところで、こんな待遇の差があるとは。 しかし、当時はこのような待遇の差が当たり前でした。ほとんどの黒人はそれに甘んじていました。事実、その日も白人が座れなくなったときに、彼女と同じように白人席に座っていた黒人は皆席を譲りました。 しかし、彼女は立ちませんでした。運転手に注意されても、逮捕されるぞと言われても。 いつもより疲れていたからではなく。 他の理由があるわけでなく。 ただ、「自分に存在するであろう当たり前の権利」を守るために。 そう、「人間の尊厳」を守るために。 人間には、誰もが生まれながらに持つ「基本的人権」が存在します。そう、 「生まれたところによらず、 人種によらず、 血統によらず、 性別によらず、 自分は自分の意思を持ってすべてを決めることができる」 意思決定の権利、です。 これは「神様が人間に与えた最高の宝物だ」と鄭明析先生が話されました。 もしこれを「血統や性別など」によって妨げるならば、それは差別となるでしょう。 もしこれを「脅迫や暴力」で曲げようとするなら、人はそれを拒絶するでしょう。 鄭明析先生は御言葉で私たちに神様を信じ、愛するよう話されます。しかし、そのことを強要されません。それは神様が「人間自らが愛を捧げる」ことを願われるからです。 だから、先生も私たちに強要はされません。洗脳も脅迫もありません。そんな摂理だからこそ、私たちは愛で、喜びで走れるのだと思います。  

摂理人satoが思う宗教のイメージ

ハレルヤ! 2015年3月15日、 『新しくやりなさい』 という主題で御言葉を伝えてくださったこの日。 私たちのブログもリニューアルしました!(≧∇≦)/ハレルヤ! その記念すべき1記事目が私satoということで…多少緊張していますが(笑) 私も心を新たに記事を書きたいと思います!   さてさて、このブログのタイトルも変わって摂理☆日本縦断~宗教いどばたブログ~となりました。 なので、今日はこのタイトルと主日の御言葉の主題にちなんでsatoが摂理に来る前と来た後で新しくなった、宗教のイメージについて書きたいと思います。せっかくなので、絵で

摂理に来る前の宗教のイメージ

 
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摂理に来る前の宗教のイメージ

  私はずっとマンガを読んでいましたが、そこで出てくる宗教ってだいたい怖いか、危ないか、魔法っぽい感じなんですよね。特にファンタジーでは邪教っぽいのが悪役に出てくる…ので、右端には「魔法陣」です。 でも、それ以上に私が怖いなと感じたのは…まるでそれが正しいと盲目的に信じさせる、というか洗脳されるということと、わけのわからない儀式(的な行為)をやらされるというものでした。さすがに魔法陣が書いてあるような宗教は稀だと思いますが、そうでなかったとしても教祖が正しい/それを否定する者は間違っていると刷り込みをされ、そのまま反社会的なことをやらされる。それが儀式であるかのように。これが怖かったんです。「自分が自分でなくなる」ということが…。 こんなイメージを持っていたので、私は宗教をとても警戒していました。 なので、摂理でBS(Bible Study:聖書について教える御言葉)を聞いていた時からずっともし、ここが宗教だったらどうしよう…という不安が拭えませんでした。これ、摂理だということを知る前ですよ。 BSをどんどん聞き進めていって、私がここが摂理だと知ったときにはさらに不安になりました。   あぁ、私はいつ変な儀式をやらされるのだろうか…。もう私は普通の世界には戻れないのか…はぁ。   なんて。 そんな風に不安に思いながら、一日一日摂理で過ごす日々を送りました。送りましたが…。

摂理に来た後の宗教のイメージ

 
摂理に来た後の宗教のイメージ

摂理に来た後の宗教のイメージ

摂理に来て1週間、2週間、1ヶ月経ちましたが…。 何もない。 儀式的なことをやらせるどころか、そういう話も出てきませんでした。 宗教に限らず、どんなところでも最初は人を集めるために良くしてくれて、あとから大変なところを見せるとか先輩風を吹かせるというのはどこでもあるところだと思います。しかし、摂理では初めて来た時と変わらないくらい、いや、それ以上に良くしてくれるのです。 「いや、これは絶対後から何かをやらせるためだ…」 そう思いながら1年が過ぎ、2年が過ぎ…気がつけばもう6年が経とうとしていますが。 未だに儀式的な行為、反社会的な行為をさせる気配はありません。 信仰を持っている人がする当たり前のことをしながら、当たり前の生活をしている、ただそれだけでした。 5年が過ぎた辺りで、ようやく気がつき始めました。 あぁ、そうか。普通の宗教はなんか変なことをやらせる場所じゃないんだ。そうじゃなくて、私たちが『良く生きる』ために必要な物だったんだ。 と。   摂理に来てから変なことはされませんでしたが、御言葉を通して、人を通して人生を良く生きるため、後悔なくスッキリ生きるための方法をたくさん学びました。それによって、私の小さな悩みも解かれ、できることも増え、私の性格もかなーーーーーり良くなりました。ついでに容姿も(笑)   刷り込み、洗脳ということは全くなく、むしろ自分がやってみて『確かに!これはいい!』と思って受け入れることがほとんどでした。というか、無理やりやらされたなんてことはほとんどありません!だって、『納得しないとやらない』のが私でしたから(笑)御言葉を聞いてもわからなければ「わかりません!!嫌です!!」って祈っていたくらいですから(笑)

宗教って…

 
最近できた家系ラーメン「屋ー屋ー屋(Yah-yah-ya)」のラーメン。

最近できた家系ラーメン「屋ー屋ー屋(Yah-yah-ya)」のラーメン。 ちなみに、ご飯は食べ放題(笑) こういうものを食べるくらい、摂理は普通の生活を送っている。

  宗教って、本当は科学のような見える世界ではなく、見えないもの-たとえば、人生観とか死生観-を知り、人生を生きる目的を学ぶためにあるんだと、私は思います。 摂理に限らず、ほとんどの宗教は誰かが持っていた人生観がいい!と思ってそれを基に生き、人に伝えていく。これしかしていないんじゃないかなって。ただ、日本人は特に考えが違う人を理解できず避ける傾向が強い民族だから、宗教を持っている少数派の人たちが変な目で見られているだけで、悪いことをしていない。 そう、結局のところわからないから変に思われるだけで、わかりさえすればむしろ尊いものだって思うんじゃないでしょうか?現に、ブッダとかニーチェとか、宗教の祖先と言われていた人の言葉を自己啓発として発売した本は人気なわけですしね。 信じているものが違うだけで、皆同じ生活をしている。 それを表現したかったのが、先ほどの「宗教のイメージ」でした。   というわけで、これから私は「宗教を信じ、それに基づいている人」として色々情報を発信していきたいと思います。あ、それと北海道の美味しいご飯も(笑)    

摂理に来て、本当に幸せになれるのか?

こんばんは、satoです。 よく摂理に来た人が次のようなことを話します。 「私は摂理に来て人生の問題が解かれました。今幸せです」 「私は鄭明析先生の御言葉を聞いて、人生が変わりました。今は幸せです」 「摂理に来て、私は変わりました」 いうなれば「摂理に来て私は幸せになった」という言葉です。 世の中には「これをすると幸せになる」とか「ここに来れば幸せになる」という言葉が氾濫しています。 そして、その大概の言葉は真実とはかけ離れた犯罪行為…主に詐欺とか、マルチ商法に使われています。 特にマルチ商法は宗教や自己啓発セミナーの形で近づいてくる人が多いので、気を付けなければなりません。 マルチ商法をする宗教は犯罪行為をする団体、すなわち「カルト宗教」ということになります。 果たして、摂理はどうなのでしょうか?摂理ではどうして「摂理に来たことで人生の問題が解かれた、幸せになった」というのでしょうか? そして、それは本当なのでしょうか?
目次

摂理で詐欺とかマルチ商法はあるのか?

まず、摂理の中で詐欺やマルチ商法を示唆するようなことは…私が7年以上いた中で一度もありませんでした。 むしろ、摂理人には「詐欺師、マルチ商法に気をつけなさい」と注意を促し、信仰を持つ人たちが騙されないようにしてます。 また、教会内でこのような行為をしてはいけない、と常々注意をされます。 伝道して「高額の教本」や「講義ビデオ」を買わせる、ということも一切ないです。むしろ、御言葉を基本無償で伝えています。 参考までに私の経験談を書かせてもらいます。 その昔、私がBS(バイブルスタディー)を聞いていた時のことですが、一度ある別の宗教に関する注意書きを大学で見たことがありました。 そこに書いてあったのは、BS形式で教えていって心を開いたところに高額商品を買わせる、という旨のことでした。 これを見た私は「あれ、これって私が聖書の話を聞いているところと似ている?」と疑問に思いました。 もしかして、あそこはこの団体なのか…と思った疑り深い私は、BSを聞きに行くときにその注意書きが書かれたビラを持っていきまして。 BSを一通り聞いた後、講義を伝えてくれた人にそのビラを見せながら… 「みなさん…この団体に騙されてませんか!?」 と聞きました。…えぇ、さすがに「ここはこの団体ですか?私を騙しているんですか?」と聞くのは失礼ですし、そんな度胸もありませんでした。 その後、牧会者と話して「しばらくちゃんと見てみてほしい」と話され、私は続けてBSを学びました。 それから、もう7年近く経ちますが…最初に書いた通り「高額の壺」とか「講義ビデオ」を買わされたことも、それを売れと言われたこともありません。これは私がこの目で確かに確認したことです。 なお、講義の一部は摂理の公式サイトにアップされています。無論、無料で誰でも見れるようになっています。 摂理のことについて言及するものの中には「献金という名目でお金を取っている」という言葉もあります。しかし、私はこの言葉も摂理の実情には合わないと感じています。 摂理の中で献金は常識の範囲内で捧げています。私は学生の身分なのでそんな高額のお金を出しません。生活ができる範囲で捧げてます。 また、誰がどれくらい捧げたか、という話も一切聞いたことはありません。それは
イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。-ルカによる福音書21章1-4節
この聖句にあるように、「金額でなく真心をご覧になられる」神様の想いゆえです。 神様が真心をご覧になるのに、私たちがお金の大小であれこれ言うなら、神様を信じるものとしてふさわしくないですよね? そういうわけで、摂理では「献金を多く捧げなさい」という話は出てきません。 これは「献金を使ってお金を稼いでいる」というのとは合わなくないですか?もしお金をたくさん得たいなら「献金を多く捧げなさい」というニュアンスが少なからず表れてもいいはずです。 しかし、実際のところ摂理で言われているのは「真心を込めて献金を捧げなさい」ということです。むしろ「心がないなら献金を捧げない方がいい」というほどです。 ちなみに…信仰生活に時間を投資しすぎてお金がない…なんていうこともたまにありますが、鄭明析先生は「しっかり働いて経済でも祝福を受けなさい」と話されています。 ここでも大事なのは、「神様に向かう心」です。お金をたくさん稼ぐことでなく、会社で神様のことを考えながら働き、経済の祝福を得ることを神様は願われます。 だから、摂理ではお金を得るために不正行為をしてはいけない、と厳しく言われています。まして、詐欺行為やマルチ商法を行なったり、勧めるということはありません。

摂理に来たら、本当に幸せになるのか?

さて、それでは「摂理に来たら幸せになれる」というのは本当なのでしょうか? これに関しては…気になる方も多いのではないでしょうか? 摂理に来て幸せになれる、そんな話を聞くと「洗脳されている」とか「宗教にハマって、盲目的になっている」なんて考えませんか? 私は結構、こういう考えが強かった人です。 結論から言いますと…「摂理に来たら幸せになれるか」は、自分次第です。 そもそも、「ここに来たら幸せになれる」とか「この話を聞いたら幸せになれる」というのは正しくありません。 いい言葉を聞いたら瞬間幸せな気分になることはあるでしょうが…それは本当の幸せではありません。 そもそも、どうして「ここに来たら幸せになれる」という言葉に惹かれるのか、というと、それだけ生活の中で苦しいことがあるからです。 生活が苦しく、心が苦しく…そういう問題を解決したくて「苦しさから抜け出せる」ところを探しに行きます。 ところが、実際に苦しいところから解放されるためには生活の中でぶつかる「問題」を解決しなければなりません。 そして、それは「ここにいるから」とか「この話を聞いたから」とかで解決できるものではありません。 生活の中の問題は自分が「行なうこと」で解決しなければなりません。ただ「信じる」だけで幸せになれるわけじゃないんですよね。 これは摂理に来ても同じことです。このことを私は摂理の御言葉を聞くことで学びました。 ここでも私の経験を書かせてもらいますと、私も摂理に来る前はとても苦しかったです。 自分がどうして生きているのかも分からず、ずっと得体のしれない不安感と「生きることに対する苦しさ」が続いていました。 死にたいとは思いませんが、ずっと生き続けることが苦痛でした。本当にそこから逃れたかったのです。 摂理に来て、御言葉を聞いたり教会の人と共にするととても嬉しかったです。本当に心が楽になりました。それで、私は摂理にいるようになりました。 しかし。 一人になったとき、私の心の苦しさはずっと残っていました。何も変わっていなかったのです。 生きることに対する苦しさ、虚無感、不安…。ずっと残っていました。 「どうして摂理に来たのに、変わっていないんだろうか…」と、時が止まったかのような、心が固まったかのような感覚に陥っていました。 これは、自分の【生活】が変わっていなかったからでした。生活が変わらないから、自分の心の苦しさは変わらないのも当然です。 そういうわけで、「摂理に来たら幸せになれる」という話は「自分次第」ということになります。 なお、これは「摂理で結婚したら幸せになれる」という話についても同じように適応されます。つまり、摂理で祝福を受けて結婚したとしても、それで幸せになれるかは「自分の努力次第」です。

では、どうして「摂理に来たから幸せになった」という人が多いのか?

上に書いたように「摂理に来たら幸せになれる」かは自分次第なのですが…。 実際には「摂理に来たから幸せになった、救われた」という人は多いです。 私が摂理の教会で会った人たちを見ると、皆幸せそうでした。無論、生活の中の苦しみはありますが、それでも「やりがい」を感じて生きている人が多かったです。 どうして、摂理にそういう人が多いのでしょうか? それは、摂理の御言葉が「生活の中の問題を解決する方法」を明確に正しく教えているからです。 今まで誰も解けなかった人生の問題、聖書の問題、自分の心の問題…こういったものに対して、鄭明析先生は「どうしてそういう問題が起こるのか」について神様の視点から話し、それを解決するためにはどうすればいいのか、明確に教えられました。 摂理に来て救われた、という人は自分がぶつかっていた問題が御言葉によって解かれたからそのように話しているのでした。 摂理の御言葉は「実践」重視です。つまり、「実践すること」を念頭に、分かりやすく伝えられています。 これは伝統的なキリスト教の御言葉が「神学的、観念的」であることと対照的です。 また、「どうして神様を信じるのか」についても明確に話されてます。だから、より人々が分かって信仰を持てるし、実際に行うことができるのです。 人生に目的があるから、それに向かって生きるから、苦しくても「やりがい」を感じるのです。 私自身も、摂理に来て一度壁にぶつかったときにこの問題と向き合うようになりました。 自分の心にある問題、神様に対する信仰が持てなかったこと…それら一つ一つを解いていくことで、問題が解決されていきました。 不思議と自分が信仰的な問題を解決していくに従って、発達障害のことについて知る人と出会えたり、数学研究においても色々な助けがあったりして、生活の問題も解かれていくのでした。 何より大きかった「自分を持てない」、「自己肯定感が低い」という問題も徐々に解決されるようになり、幸せを感じられるようになりました。 今でも「人生を生きる苦しさ、虚しさ」を感じるときはあります。 それでも、私は前より確実に成長していると感じるし、「幸せだ」と感じるし、「生きがい」を感じてます。

結論

「摂理に来たら幸せになれるのか」と聞かれたら、私はこう言いたいです。 摂理の御言葉を聞いたら、多くの問題が解決されるようになる。 しかし、「幸せになれる」かはあなたが摂理の御言葉をどれだけ聞いて、どれだけ行うかにかかっている。つまり、「あなた次第」だ。 そういうわけで、「幸せになりたい、苦しさから抜け出したい」と思ってこのブログに行き着いた方は、公式サイトも見てみて、一度摂理の御言葉を聞いてみてほしいな、って思います。 もっというなら、ただ聞くだけでなく、とりあえず信じてみて行ってみてほしいな、と願います。 …余談ですが、こうやってブログに自分の信仰に関するいきさつを書くと、力を受けますね。 改めて「信仰の問題」から着手することが大事だな、と再認識しました。明日からの生活に活かします(*‘∀‘)  

教会に通うことに対する親の心配

どーも、Luckです! 帰省のタイミングで母親に自分が教会に通っていることをカミングアウトしました。 父親と兄には話していたのですが、母親にはまだ話していなかったんですよね。     うちの家系は代々、仏教徒。 毎日のように仏壇に拝み、お寺によく通うような家族でした。 そのような習慣で生きてきたため、他宗教に対しての抵抗感は強いです。 父親と兄に話した時にも、私の意見は全く聞かないで頭ごなしに否定してくるぐらい、うちの家族はキリスト教をはじめとする仏教以外の宗教に対して、警戒しています。     母親にカミングアウトした時も、父と兄ほど頭ごなしの否定はしませんでしたが、柔和な言い回しで止めてほしいと言われました。 原因を聞いてみると、普通に生きてほしかったからという思いがあったみたいです。 だいぶ、教会に対する偏見があったようなので、対話して真実を話していく中でだんだんと安心していく母親の表情は感じ取れました。   母親が信仰を持つことにおいて心配することは以下のようなことでした。

時間が制約されること

教会に通っているということは自由な時間がなくなるのではないか こういうことを心配されました。 礼拝やお祈りには確かに時間はとられるけど、好きで行っていることだから、趣味に時間を費やすようなものと一緒だと話しました。 礼拝とお祈りによって、人生を豊かに生きることを実感しているから、今でも通っていると言いました。    

お金を取られるということ

教会にお金を寄付しているから、金がないんじゃないの? と言われましたが、お金がないのは自分の経済管理能力の問題です。 初めて、自分のお金の使い方によって、一般の人の教会に対しての見方が変わるのだなと感じるようになりました。 ここは私が悔い改めなければならないところです。     ちゃんと献金というものはあるけれども、心から捧げたいと思ったら捧げたらいいし、経済的に厳しい時には捧げなくても大丈夫だと教えられていると説明をしました。 具体的な捧げる頻度と金額を教えたら、少し安心したようでした。    

洗脳されること

お前、洗脳されてるんじゃないの?と言われたことに対しては、確かに洗脳されているかもしれないねと答えました。 その言葉に続けて、「親の教育や部活の教育方針に従って、人格とか考えとかが形成されていくから、それも洗脳だよね。結局、どこに洗脳されていくかが重要だと思っている。自分は聖書の教えと思想が学んでみて、本物だと思ったから、ここに洗脳されていこうと思った」と説明しました。 しかし、母親は「自分は学がないから、そういうことを言われてもよく分からない」と言われてしまいました。 説明するって難しいです。     この説明はあまり納得はしてもらえませんでした。 もう、シンプルに「教会にいる人は常識的な人たちばかりだし、反社会的なことは一切やらないし、そういうことをしたら自分はすぐに止める」と言ったら、理解できたようです。    

勧誘活動をしていないか

ここも心配しますよね。 見ず知らずの人にいきなり、聖書を学びませんかという勧め方をしていたら、怪しい極まりないです。 特にこの日本では。   この質問に対しては学びたいという人には教えているけれども、学びたくない人には無理やり教えることはないよ と軽めに話しておきました。    

仕事を休んでまで教会に行っていないのか

それはない!と断言しました(笑) やはり、反社会的な行動をとっていないのかが気になるようです。 さらに、オウム真理教の地下鉄サリン事件を引き合いに出して、こんなことをするなよと釘をさされました。 20年以上前の事件ですが、親の記憶には深く刻まれたショッキングな事件のようです。   普段から常識的な行動、正常な言動をとることが信頼してもらえるので、仕事も熱心に頑張ります。    

墓はどうすればいいのか

この観点を心配するのは予想だにしていませんでした。 やっぱり仏教の思想が根付いているので、キリスト教と仏教の隔たりがないのか気になるようです。 死人を偲ぶ心が大事だから、ちゃんと葬ってくれればなんでも大丈夫だよと話しました。    

まとめ

このような心配をしたのも、身近な人が教会に通うようになって、変わった行動をとるようになったからだそうです。 家系を辿ると、私の家族は分家。 本家から離れた家系です。 親の実家である分家と本家は家は隣同士なのですが、本家は戦後にキリスト教に改宗したようです。     改宗した本家の人たちが事あるごとに祖父母や両親を教会に通うように、勧誘してきたみたいです。 さらに、なかなか高額のお金を毎月、教会に寄付しているという話をよく聞くそうで、あまり良いイメージがないようでした。 本家の人たちが変な行動をしているとは思いませんが、確実に言えることがお互いの対話不足による誤解は生じているようには思いました。 噂や予測によって、正常な行動をとっているのにも関わらず、異常行動をとっていると思われるのは珍しいことではありません。     だから、聞く側は本人に直接、詳細に情報を正確に聞きとることが必要ですし、 伝える側の人たちは正確に、相手が納得するように人格的に説明してあげないといけないなと感じました。 この話を聞いて、今の自分たちの行いが後世の人たちの運命を左右することを感じ、自分の行動の重要性を悟るようになりました。 これから末永く、主の御言葉の貴重さを伝えていくためにも、自分の行いに気を遣って、家族にも友人にも社会のあらゆる人の前で正常な行動、相応しい言動を備えていき、正確かつ詳細な説明をしていこうと決心いたしました。  
今日のひとこと自分のことを分かってほしいなら、親のことを分かってあげないといけないのだな~
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