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多様性と真理

現代は多様性を認めることを
よしとする風潮があります。

特に、
「個性を認める」というのは、
よく聞くのではないでしょうか。

個性について先生は

神様はすべての人間を
「個性」で生まれるように創造なさり、
個性どおりに「才能」を与えて創造なさった。

<人間>も、地球の70億人の個性がそれぞれ異なる。
人それぞれ「姿」も異なり、
「特徴」も異なり、「美」も異なる。
だから、この人があの人の代わりになれない。

<2014年9月22日
鄭明析牧師の明け方の箴言>

と教えてくださいました。

なので、現代の流れは
神様の願っていらっしゃったこと
なのですね。

 

ただ、
気を付けなければならないことが
あります。

それは、
何についても多様性を認めればいい、
というのではないということ。

多様性を認めるべきことかどうか、
言い換えれば
それを個性と捉えるかどうかは
その時々で真理によって割いて
判断をしなければなりません。

 

例えば、
公共の場で子どもが走り回るとして。

「この子は走るのが大好きだから」
「走る能力を伸ばしてあげたいから」
「速く走れるのが個性なんです」

こういったことは、
個性とマナーの話が混同されています。
最低限のマナーは守るべきであり、
マナー違反を個性や多様性だとするのは
ちょっと違うのではないでしょうか。

摂理でも、
個性を伸ばすためには
マナーなど気にせずやりなさい、
なんて話が出たことはありません。

 

このようにわかりやすい例ばかり
現実に起こるわけではないですが、
親が真理に根差し、
常に正しい判断を下すということは、
子どもに背中で語る上で
非常に重要なことだと思います。

子どもはまず、
その行為の理由を考えずに
見たまま吸収していきますから。

私もまだまだ未熟で、
自分の考えで判断してしまうことも
間々ありますが、
揺れない基準にしっかり根差した判断を
いつも子どもに見せていきたいと
思っています。

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