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目線を下げるということ

『イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 』 (新約聖書:マルコによる福音書2章17節)   わたしがきたのは、義人のためではなく、罪人のためだとおっしゃいました。 即ち、神様の御言葉が分からなくて罪を犯してしまっている人々のために、真実に正しい考えと行ないがわからずにまるで病人のようになってしまっている人々が正しく生きられるために来たんだよと言っているんです。 そうしながら、当時、世間でも蔑まれていた、罪人と言われる人々や、収税人や、娼婦と呼ばれる人々の中に入って行って、御言葉を伝えてその人々の問題を解いてさしあげることをしてまわっていました。到底、普通の人の考えでは考えられないようなことをして回っていました。また、まるで乞食のように座って物乞いをしている人の病気を癒し、もはや乞食ではなく、普通の健常者として生活ができるようにまで癒し回復させることもしていらっしゃいました。本当に、イエス様に愛が無ければできなかったことでした。 なぜ出来ないというのですか? それは、人間は、どんな人だとしても、心から愛で接してやってくれているのか、または偽善で、形式だけて接しているのかは、必ず見抜いてしまうからです。 皆さんも、そうじゃないですか?   そうしながら、愛ですべてのことを行なわれたため、イエス様の行なったことを真実に体験した人たちは、イエス様の御言葉を聞き、人生を真理の道に転換していくようになりました。しかし、イエス様の御言葉を聞かなかった当時律法学者やパリサイ人と呼ばれる知識層の人たちは、イエス様の伝える御言葉と行ないを受け入れませんでした。   鄭明析牧師は、そのようなイエス様の姿を聖書を通して、またお祈りを通して、また自分が実際にイエス様のように実践してみることで、イエス様の真実な愛を悟るようになりました。 鄭明析牧師も、家に乞食の人を連れて帰って来て、ご飯を食べさせ、お湯を沸かして体を洗い、服を着せてさしあげ、仕事先まで探してその人が生活できるようにさせてあげていました。また、生活のためにお金を請い恵んでいる人にも、ただ単に上からお金を放り投げて渡すのではなく、お金を請いている人の目線までしゃがみこんで、『このことは、イエス様が行ないなさいとおっしゃったことです。わたしもあなたと同じような状況でした。しかし、イエス様が伝える真理を行なったら、今はこのようになりました。』と言って、同じ目線でお金を渡して差し上げていました。 どれほど愛があれば、そのような行ないができるでしょうか? どれほど愛が染み付いていれば、見ず知らずの人を自分の家に入れて、ご飯を食べさせ、体を洗い、服を着せ、就職先まで面倒を見るでしょうか?   愛は、口先だけではないのです。 鄭明析牧師は、『愛は、行ないが伴わなければ、愛しているとは言えない』 とおっしゃいました。   目線を下げると言うこと、自分の周りの生活でとても必要になる精神であり、実践してこそ平和がなされることだと、痛切に感じるところです。     ランキング参加中☆応援よろしくお願いします^ ^ にほんブログ村 ライフスタイルブログ あたたかい暮らしへ にほんブログ村]]>

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