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摂理の礼拝☆献金の感想

初めてのことも、どういう意味なのか正しく理解すると、よく分かるようになります☆   今日は、摂理の礼拝で捧げられる「献金」について、お話したいと思います。 「献金」 皆さん、耳慣れない言葉ですよね。 「現金」 は、耳慣れている言葉でしょうか??^^(苦笑) お金って、私たちにとって、とっても大切な価値が有りますよね。 だからこそ、気にもなるし、耳も自然と大きくなると思います。   [caption id="attachment_771" align="alignnone" width="300"]耳が大きくなる(イメージ) 耳が大きくなる(イメージ)[/caption] 道端で歩いていた時に、チャリンと音がした時に思わず振り返ってしまうあの瞬間。 いやぁ、お金って、人の心を動かしてしまうくらい、影響力があるんですよね^^ その、大切なお金の話、「献金」のお話しです。   実は、もともと、日本には「献金」の習わしが旧くからあります。 身近なところでは神社の「お賽銭」です。 [caption id="attachment_767" align="alignnone" width="300"]お賽銭 お賽銭[/caption] 毎年、多くの方が進学、就職、結婚、出産、厄除け等々、様々に神社でお参りをし、お賽銭箱に「お賽銭」を投げ入れて、からんころんと鈴を鳴らして、お願い事をしたりしていると思います。この「お賽銭」も「献金」なんです。 また、お寺の檀家さんが、お寺の和尚さんに供え物やおすそ分けをお渡しするのも、いつもお世話になっていますと、感謝の心を表すために、贈りものをしたり、または、という意味で、いくらか包んでお渡ししたりしています。これも、「献金」なんです。 実は、皆さん生活の中で普段していることなんです。 それを、キリスト教の聖書の言葉で表すと、「献金」という言葉になります。 聖書の、ある個所には、「献金」に関するエピソードが記されています。   聖書の本文をみてみましょうか。 ある時、イエス=キリストが「献金」について話しをされたことがありました。 『イエスは目をあげて、金持ちたちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て、言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの夫人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。』 (新約聖書:ルカによる福音書21章1~4節)   [caption id="attachment_768" align="alignnone" width="300"]貧しくても生活費すべてを入れた 貧しくても生活費すべてを入れた[/caption] 皆さん、どう思いますか? 「献金」って、たくさんの額をすればするほど良いんじゃないの?って考えませんか? Yoも、初めはそのように考えていました。 また、「無理やり」献金しないといけないんじゃないの? と思っていもいました。   しかし、その考えは完全に打ち砕かれました。 [caption id="attachment_769" align="alignnone" width="300"]考えを打ち砕かれる(イメージ) 考えを打ち砕かれる(イメージ)[/caption]   イエス=キリストの御言葉を良く読んでみると、お金持ちが投げ入れた献金よりも、夫を亡くして貧しく暮らしている女性が投げ入れた献金の方が、たくさん献金したと書いてありました。 これは、どういうことを意味しているんでしょうか?   少し、一緒に考えてみましょう。 「献金」を受け取る対象が誰なのか、皆さん分かりますか? 「献金」を受け取る対象は、「神様」です。 しかし、「神様」は肉体を持っていない方であり、人間の用いる「お金」は、物質としては神様は使うことができません。すなわち、お金自体は、神様には必要ないんです。 では、神様に必要なのは何なのでしょうか? 神様は、献金を捧げる人の献金の額ではなく、捧げる人の「心を見られる」 と言われています。 即ち、神様は、「献金」を通して、神様に対する「真心」と「感謝」を受け取られるということです。   [caption id="attachment_770" align="alignnone" width="300"]真心と感謝 真心と感謝[/caption] そうすると、捧げた「献金」は、物質的には誰が受けるのでしょうか? 礼拝の時に捧げられた「献金」は、教会の維持運営のために、不正なく、教会に必要な備品等の購入に使われたりします。 すなわち、「献金」をして、その献金を恩恵を誰が物質的に受けているのかと言うと、「献金」を捧げた自分たち自身が受けていると言う事です。つまり、すべて自分に返ってくるということなんです。 そして、献金をして返って来る恩恵は、自分自身が「真心」を込めて捧げた「献金」の数倍、数十倍、数百倍になって恩恵を受けるようになる。と言われています。 実際に、「真心」から「献金」を捧げた人たちは、仕事が予想以上にうまく行ったり、最年少で昇進、昇格したり、家庭が平安で栄えたり等々、「お金では買うことができない」とても多くの恩恵を享受している方々がいっぱいいらっしゃいます。 かくいうYoも、社内最年少で営業成績NO1を達成し、社内最年少で全社営業統括室長をさせて頂くようになりました。もはや、自分の持っている力を超えて、経済的な恩恵を享受していることを、認めざるを得ません。これも、「献金」の恩恵の一つです^^   ですので、「献金」の額は、特に関係ないんです。 大切なのは、神様に向かう、「真心」と「感謝」なんです。 「真心」を受け取られる「神様」なんです。   私たちも、生活の中でよくお歳暮等、「つまらないものですが、気持ちです。」と言って、何か贈りものをしていますよね。人間同士でも、「気持ち」が大切なように、「神様」にとっても大切なのは「気持ち」であり、「真心」なんです。 そして、鄭明析牧師は、『「献金」できるお金が、ある事情のために無い人もいるから、そういう人は、「真心」を込めて、御言葉を実践して、時間を神様に捧げなさい。また、あなたの行ないを自分の考えではなく、御言葉のとおりに新しく行ないなさい。それが、「献金」をすることだ。』 と、おっしゃってくださいました。   私たちも、「献金」の意味を良くわかって、「真心」を届けるんだ。「気持ち」「感謝」を贈るんだ。という、愛の心が有って初めて、「献金」というものを捧げるようになります。そして、心が無く形式だけ「献金です」と言って捧げても、神様は、その心が無い形式だけの「献金」は、献金としてみなしてくれません。形だけであって、捧げる人の「真心」を受け取ることができないからです。この場合は、むしろ「献金しない」方がマシです。   私たちも、貧しくても生活費すべてを捧げた、やもめ女性の姿のように、「真心」、「感謝」を大切にして、「献金」の意味をはっきりと分かって、捧げたいですよね。 はっきりと分かって「献金」すると、栄えます☆ これが、「献金」の意味であり、価値です^^  ]]>

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