バベルの塔をみなさんはご存じですか?
聖書の中の旧約聖書
創世記11章にバベルの塔の話があります。
【 全地は同じ発音、同じ言葉であった。
時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。
こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。
時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 言われた、
「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。】
今日、紹介する鄭明析牧師の箴言は
『主を頭にしない人たちよ。
続けてそうしていたのでは結局限界を迎え、
苦労したことが、バベルの塔が崩れるように崩れる。
その時になってはじめて主を頭にせず行なったことを悟る。』
何をもって行うのは?
どの様な精神で行うのかが重要ではないでしょうか?
例えば、みんなと一緒に行なうにしても、傲慢で自分勝手なやり方をする人には・・・
ついて行く人は少ないのではないでしょうか?
また、ワンマン社長と言われた人も最初からそうだったのでしょうか?
気心の知れた仲間と共にしていたから、その中で、リーダーシップを発揮していたけども・・・
会社が大きくなっていく中でいつの間にか?
そのワンマン社長のことをわかって、ついて行ける人がいなくなっただけではないでしょうか?
この事はついて行く人がその事(経過や社長の気持ち等)をわからないといけないでしょうし、
社長自身も会社の成長や時代の変化と共に変えるべきところを変えれなかったのではないでしょうか?
バベルの塔の話は
人が創造された理由や神様の御心を知ること、悟ることができなかったことが
問題だったのではないかと私は思います。
この事は大きいことでも小さいこと、細かいところでも同じです。
大きいことだけではなく、細かい、あるいは小さいことと私たちが思えることだとしても・・・
一緒です。
神様を、主を頭として行うことは生きていく上で非常に重要です。
みなさんは誰を中心に行っていますか?
神様を中心に生きる生を生きてみませんか?
自分の思いで生きた時と比べてみてください。
何が違うのか?
また、その生き方が自分自身にとって、どうなのか?
行なってみること、感じることが大事です。
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