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リオ・パラリンピック開幕

リオ・パラリンピックが開幕しました!

これまでオリンピックが終わると、
「パラリンピックって、いつやってるんだろう?」
ってくらいニュースにもならず、
競技自体の放送も
あまりされなかった記憶があります。

どうして放送されないんだろう?
世界一を争っているのに。
なんだかもったいない。

 

ずっと疑問でした。

 

でも今回はNHKでも
競技中継等々たくさん取り上げるそうですね☆
楽しみです。
2020年の東京オリンピック&
パラリンピックを見据えてのことみたいですが、
何にせよ、知らなかったことを知れるというのは
いいことだと思います。
これを機に健常者・障がい者の垣根が
低くなっていけばと思います。

 

人は知らないと関心を持てません。
関心があっても知らないと、
よく理解できません。
また時には、
「よくわからないから」
相手や状況を思いやることも難しくなったり、
勝手にこうだろうと決めつけたり、
様々な弊害を生んでいるように思います。

私は、今日こうやってブログに取り上げてますが、
実は障がい者のことをよく知りません。
障がいを持つ人と関わることが、
極端に少なかったからです。

小学校何年生のときだったか、
近くの聾学校との提携(?)で
1年間に2週間くらい
聾学校に通っている子が
小学校に通ってきていました。
そのときに1年に2週間×2年分、
一緒に過ごしたことがあるだけです。
彼女とは仲が良く、
手話を教えてもらったり、
校庭で一緒に遊んだりした
楽しい思い出があります。

でも、経験としてはそれだけなんです。

今、障がいを持つ人が近くにいても、
どうしていいかわかりません。
本当に申し訳ないことですが、
接し方がまったくわからないのです。

 

子どもを妊娠してから特に
子どもに障がいがあったとしたら?
と考えることが増えました。
そういったニュースや記事を
特に気を付けて読むこともあります。

そういった中に、
「そもそも障がいを持つ人と持たない人を
分ける必要があるのか」
という議論があるのを知りました。

障がいを持たない人と
障がいを持つ人との関わりを
一旦分けてしまった場合、
再び合流するのは非常に難しいからとのことです。

例えば市立の小学校に通わずに
養護学校などを選択したら、
中学や高校やあるいは社会人になっても、
障がいを持たない人の世界に入っていくことは
なかなか難しい。
それよりは一緒に過ごして、
互いを理解して過ごせないものか、と。

それを知って…
障がいの程度にもよる部分はありますが、
そして
障がいに対して無知な私が言うセリフではない
とは重々承知ですが、
確かに分けなくてもいい部分はある、
と思いました。

なぜなら、
小学校のときの2週間×2年分、
私は彼女と自然に関わりを持っていたからです。
当時、私の通っていたクラスでは、
彼女に対していじめたり
彼女の耳が聞こえないための扱いを
特別扱いだと非難したりする人は
誰一人としていなかったように思います。

そしてまた、どう接していいかわからない
といった感じの子もいなかったように思います。
皆が彼女の耳が聞こえないことを理解し、
どうやれば一緒に過ごせるのか、
皆で考えながら遊んだり勉強したりしていました。

 

今、私が同じようにできないのは
なぜでしょうか。
子どものように純粋じゃなくなったから?
もちろんそれもあるでしょう。
でも、それよりももっと大きな理由に、
私が「障がいを持つ人」のことを
知らないからだと思うんです。

先生の伝えてくださった御言葉の中にも
無知についての話がはたくさんあります。

<自分の無知>は「自分」に支障をきたす。
<他人の無知>によって「知っている人」も害を受ける。
だから<無知>は「人間の考えと行ない」から消えなければならない。

<2016年1月25日月曜日 鄭明析牧師の明け方の箴言>

今回のパラリンピックを通して、
ほんの一部だとは思いますが
障がいを持つ人のことを知れたらいいと思っています。
知ることによって
誤解、偏見、差別、…etc が
少しでもなくなるよう祈っています。
そういった世界に、
娘も住んでほしいと願っているからです。

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