10年近く前の話だ。
選挙シーズンだったある日、道を歩いていると選挙カーに乗った候補者が、車の上で演説をしていた。
選挙シーズンなので当然の光景だ。
選挙カーの前で立ち止まって演説を聞いている人はいなかった。
自分もその前を通り過ぎる。
その時ちょうど小さい男の子を連れたお母さんと、選挙カーの前ですれ違った。
その男の子は選挙カーで演説している姿を見て、
「ママ、あれ何?」と聞いた。
それに対するお母さんの答えは
「ダメよ。政治と宗教には手を出しちゃダメ」
だった。
(もしかしたら口を出しちゃダメだったかもしれない)
「子供に凄い極端な教え方をする母親もいるもんだな」Σ(・□・;)
と驚いた記憶がある。
自分はいろいろな人に会ってきたが、大抵の人は宗教に対して
「考え方が偏っている」
というが、実際
「その考えが一番偏っていること」に、ぜひ気が付いてほしいものだ。
政治家という存在
昔小学生?くらいの頃までは「政治家」という存在がよく分からなかった。
しかし「悪口を言われている存在」くらいに認識していたことをなんとなく覚えている。
基本的に人は政治家に対して批判的だ。
総理大臣が立てられると、支持率に関わらず大抵叩かれるニュースや言論が多い。
しかし中学生くらいの時から、それは何だか変だとずっと思っていた。
悪く言うのは簡単だが、実際総理大臣も大変であり、また難しい職業だろう。
あちらを立てたらこちらが立たず、こちらを立てたらあちらから批判が来る。
「〇〇首相は無能だ!」というけれど、
しかし誰かが総理大臣をしなければならないのは確かだ。
「〇〇首相は無能だからやめろ!」と人はいうが、
そうやってまた次立てられた人にも、恐らく同じことを言うのだろう。
「文句を言うなら、お前がやれ」と言われたら、一体どうするのか。
先生の教え
しかし先生は次のように教えて下さった。
神様が願われる人が民族の主権者として立てられるように祈ることが<知恵>です。
すでに民族の主権者が立てられたなら、民族の主権者として立てられた人のために祈ることが<知恵>です。
~2017年05月14日鄭明析先生の御言葉より~
ああ、本当にそうだなと思う。
ただ政治家を批判するのではなく、その人がうまくできるように祈ってあげるべきだ。
それが民主主義国家の国民としての義務だと言えると思う。
「そういえば今まで『日本のために』祈ったことは何度もあったが、
もっと具体的に『〇〇首相のために』祈ったことはなかったな」
と自分を振り返る。
先生はいつも「毎日全世界の政治家のためにも祈っている」とおっしゃる。
毎日政治家のために祈っている人が、全世界に一体何人いるだろうか?
私たちはいつも「祈り」という責任を果たさず、
自分のすべきことをしないで、
誰かのせいにしたり、
環境、状況のせいにしていることが
多いように感じる。
鄭明析先生が教えて下さったように、
批判する前に、
文句を言う前に、
全てを神様と共に、
「祈り」で、
治めていきたい。
コメント
コメント一覧 (2件)
同感です。
僕も戦争がないように!日本や韓国の民族のために!とは祈ったことがあっても、今の政治家の方々が神様の御心通りに政治を進められますように、とは祈ってなかったかも。
改めて先生の精神を学んで、もっと祈っていきたいです。
私もそう思います。
ただ盲目にシャットアウトするのではなく、
その政治家が行っていることを正しく見る力が必要ですよね。