「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 (口語訳聖書:ローマ人への手紙13章9節) この聖句の中にある、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」 この一言は、実践するならば世界を幸せにできる一言だと思います。 よくこの場面がなされているところを見ることがありますが、 この一言が出てきています。 「子どものためなら・・・私が代わりになりたい。」 「あなたのためなら・・・私もやるわ。」 親子の場面、恋人、夫婦のやり取りです。少しニュアンスは違いますが、どちらも、自分のこととして自ら受け取って行おうという強い意志がありますよね。 愛の根本者と言われる神様は、新約時代にイエス様を通した愛の実践を見せてくださいました。 ある日、姦淫の罪を犯したと言って一人の女性がイエス様の前に連れてこられました。人々が言うには、律法の書に従って、死刑にしなければならない。罪を犯した女性を石で撃ちころさなければならないと言うことでした。さて、イエス様も同じように、「では律法の通りにその女性を石で撃ち殺そう」とおっしゃったでしょうか。 イエス様はそのようにおっしゃいませんでした。
「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」 (口語訳聖書:ヨハネによる福音書8章11節)イエス様は、「あなたを罰しない。」と話してくださいました。 さて、女性を連れてきた人々は何も言わなかったのでしょうか? イエス様は、連れてきた人々に対してこのようにおっしゃいました。 「あなたたちの中で、罪が一つもない人がこの女性に石を投げつけたらいい。」 そして、地面に何かを書き始めました。 何を書いていたのかというと、女性を連れてきた人たち一人一人の罪を書き始めたのです。 そうしながら、人々も何も言うことができず、手に持ってきた石を捨てて帰って行きました。 結局、イエス様を通して、女性は救われました。 また他にもイエス様は、旅人をもてなし、金銭や飲食のためではなく、人に仕え、下心ではなく、真心から人にして差し上げなさいとおっしゃいながら、弟子たちにまで仕える姿を示されました。ある時には、イエス様自ら、弟子たちの足を洗う場面が見られます。 そのような、真心と愛の実践の姿を、鄭明析牧師を通して見るようになりました。 この世の中には、聖書をものすごーく読み、イエス様についてもたーくさん知っている方は多いと思います。しかし、イエス様が行なったように、神様の愛を自分の体を持ってそのまま実践している方がどれだけいらっしゃるでしょうか。わたしは、その姿を鄭明析牧師に見ました。実際に行なっているのだから、何も言わなくても胸にドカンと伝わってくるものがあります。わたしは今でも、鄭明析牧師から肌身で学ぶことが多いので、摂理の教会に通い続けています。 真の利他主義は、自分の体を持って、他の人を愛し抜く時に完成するのでしょうね。 今日もハッピーな世界が拡がりますように。]]>
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