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良くても悪くても

今夏、ある後輩が

神様も先生も良くても悪くても
自分がどんな自分であっても
受け入れて導いてくださる。
だから私たちがお互いを見て、
できないからと批判したり
誰が合ってる間違ってると
評価したりするのではなく、
どんな人であっても受け入れ
できないことがあったら補い合い
一つになることが重要だ。

という話をしてくれました。

私はこの話を聞いて、
非常に衝撃を受け、
大きく感動をしました。
この話を聞いたのは8月中旬ですが、
あれから何度も思い出します。

摂理に来て今週水曜で丸13年(!)
もちろん神様も先生も
そういう方だと知っていたし、
自分の中の目標は、
先生のような人間になっていくことです。

でも、日常生活での自分の行いは
そこからまだまだかけ離れている
…と言わざるを得ません。

自分に対しても
できるできないで評価していることがあるし、
パパや娘に対しても
そういうところがたくさんあります。

 

でも、神様や先生の視点は
そこではないんですね。

 

できない部分や苦手な部分は
責めたり批判したりするのではなく、
できる人が手伝い、やればいいですよね。
だって「個性」なのですから、
できること、得意なことは人それぞれ。
できることや得意なことがバラバラじゃないと
新しい発想も生まれにくいし、
そもそも社会が成り立ちません。
先日のパラリンピックの話にも
通じることかもしれません。

聖書にも

「あなたがたがさばくそのさばきで、
自分もさばかれ、
あなたがたの量るそのはかりで、
自分にも量り与えられるであろう。」<‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:2‬>

とあります。

さばく、というのは、
「裁き、審判」という意味に限らず、
評価することですね。

これ、ホント~に
言うは易し、行うは難し…です。
摂理に来る前の自分なら、
絶対目指さなかったと思います。
今でもやる程に難しさを感じます…。

 

今回耳下腺炎が長引いてしまってますが、
子どもって母親のことを
無条件に受け入れてくれるものなんですね。

ママが怒ろうが
病気で世話をほとんどしてあげられなかろうが、
大人からすれば足りなくて
申し訳ないことばかりでも、
ニコニコ笑顔で
時には心配もしてくれながら
近づいて受け入れてくれます。

聖書にも、

「よく聞きなさい。
心をいれかえて幼な子のようにならなければ、
天国にはいることはできないであろう。」<‭‭マタイによる福音書‬ ‭18:3‬>

というイエス様の言葉がありますが、
これも子どもの心で学ぶべきことの一つですね。
子どもの持つ無償の愛ってすごいなと思います。

子どもももちろん全人類に無償の愛を
実践できているわけではないと思いますが、
大人になるにつれ
範囲が狭まるのはもったいないことだなぁ
と改めて思いました。

 

これから子どもが成長していくにつれ、
私もそうだったように
親が思うようにはまず成長しないだろうし、
ぶつかることも多いんだろうなぁと思います。
そのとき子どもが良くても悪くても、
親の視点だけで判断せずに
受け入れ受け止め認めてあげられるように
私自身も成長していたいなと思います。

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