先日の主日礼拝の御言葉で「神様の時は、人間が分かっても分からなくても過ぎ去る」というものがあった。
各自、それぞれに時があるという言葉が旧約聖書の「伝道の書」に書いてある。
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
伝道の書3章1~8節より
この御言葉を聞いた日、帰り道にいつも見上げている桜を見ると、もう葉桜になっていた。
(先日まで満開だったのに・・・・)
花を愛でる民族日本。
昔の人も、桜の花を愛でていたのは、花の命が短いから余計にそうだったのかもしれない。
4月の初めに咲き始めた桜は、4月の中旬にはもう葉桜になった。
ピンクから緑へと移り変わる桜の木を見上げながら、「このようにこうだ」と遠足での出来事を思い返すようになった。
あれは、六年生の遠足に行った時のエピソードだ。
回るべき所を回って、お昼のお弁当の時間になった。
まっちゃんは当時支援学級の担任をしていたので6年生の児童についていたが、彼は極度の自閉症で、
「この場所は嫌だ」
「虫がいるから嫌だ」
「汚いから嫌だ」
あれこれと理由を付けてそこで食べるのを嫌がったので、あちこちと食べる場所を一緒に探し回った。
探すだけでも30分。
もう、ほとんどの子は食べ終わっていた時間だった。
そして、やっと見つけた虫がいないコンクリートの上。
カンカン照りの青空の下で、まっちゃんとその子でお弁当を広げたが、彼はお弁当の蓋をあけたまま、今度は、周りの子が遊び始めたのが気になって、結局一口も食べずに終わってしまった・・・(^-^;
そして、家にそのままのお弁当を持って帰った。
結局、お弁当は日に照らされて悪くなって食べれなくなってしまった。
食べずに周りの環境を気にしている時に、「食べ物の鮮度を保てる時」は過ぎ去ってしまった。
このように、食べても、食べなくても、「時」は過ぎる。
待ってはくれない。
このように、各自、「自分の時」がある。
その時を掴まないといけない。
このように御言葉で仰った。
今この時は、「この時に該当する良いこと」が過ぎ去っていきます。
後になって【あの時は良かったのに・・】と後悔しないよう、今この時にすべきことを行ないなさい。」
<時間の価値>を分かって、貴重に使って、治めなさい。
歳月を無駄に過ごすな。そのまま流すな。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より@ www.god21.net