【コリント人への第一の手紙13章12節】 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 この当時、比喩で鏡が用いられてますが、おぼろげに見えるものの象徴として使われているので、おそらくこの時代は金属鏡を用いていたと考えられます。 現存する金属鏡で最も古いものは紀元前2800年ころのエジプト第6王朝時代のものだそうです。 そして、1317年にガラスを用いてよく反射する鏡が生産され、 1835年にはドイツで銀鏡と呼ばれる現在の鏡に最も近い鏡が作られるようになりました。 日本では鏡のことを「鑑」とも書くこともあるそうで、人間としての模範・規範を意味しています。 摂理の鑑といえば、鄭明析先生です。 先生は50年前に鏡で初めて自分の顔を見たそうです。 その時、自分の顔を不細工だと言って鏡を割って捨てたそうです。 先生は学歴もなく、身長もなく、容姿も特別良いわけではなく、お金も名誉もありませんでした。 しかし、先生は、聖三位を愛するところはどんな人よりも長けていました。 私は先生が聖三位をひたすら愛する精神と生き様を見て、かっこいいと思うようになりました。 この精神一つによって、先生は摂理の鑑となられました。
学があってもなくても、容姿がよくても悪くても、身長が高くても低くても、お金や名誉があってもなくても、人は<心と考え>、そして<体>さえあれば、私エホバと聖霊と御子を愛することができる。 だから<三位を本当に愛すること>を見て選ぶ (鄭明析先生 2015年9月6日主日の御言葉から抜粋)]]>
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