数年前、親に摂理で聖書を学んでいると告白した時、父親から反対されました。 「新興宗教はやめろ。」と。 いくら御言葉が真実であり、摂理が危ないところではないと説得しても、ただ「だめだ、やめろ」と言うだけで文字通り話になりませんでした。 摂理に対して誤解している人はまだまだ多いように思えます。 宗教=カルト=危ないところ こんなイメージがついているのは親だけでなく、僕もそうでした。 しかし、摂理に来てからはすべての宗教が危ないわけではない。むしろ人生を豊かにしてくれるものもあると思うようになりました。 特に摂理は蜜のように甘い御言葉、人生の問題の答えがある場所なのに見ても聞いてもいない人に誤解されてしまうのはどうしても悔しいです。 私は父親に「お前が行っているところは摂理でしょ。カルトはやめなさい。」と言われたとき、心の中で真実な叫びが出てきました。
目次
「摂理の何が危ないの?摂理はカルト?」
カルトという言葉からして何か怪しい感じがします。 そもそもカルトとはなんなのか。 ネットで調べてみると、このような定義が出てきました。もともとの意味は「正当な宗教に対する新しい宗教」という位置づけだったが、現在では「極端な(時に危険な、また反社会的な)思想を持った宗教又は団体」という意味で使われる。 宗教とは関係なく、あまりに極端な思想を持った団体でもカルトという単語を用いることがある(例:環境カルト)。 ジャーナリズムの世界では、「反社会的な宗教」という意味で使われるのが一般的。殺人、テロ、暴力を伴う洗脳など、犯罪を犯した宗教などに対して用いられている。 はてなキーワードよりつまりカルトとは、 1.正当な宗教に対する新しい宗教 2.危険かつ反社会的な宗教団体 3.洗脳され、犯罪を犯す宗教 のいずれかに当てはまれば、上記の定義に沿っているといえますね。 これらの項目と摂理はどれくらい当てはまっているのか考察してみました。
摂理は旧約新約を土台にしている宗教
「正当な宗教に対する新しい宗教」という面では、その通りという面もあれば、違うという面もあります。 旧約の延長が新約であり、新約は旧約の延長線で繋がっているから、旧約と新約はひとまとめにもできるし、新約は旧約から見たら新しい宗教ということにもなります。 そのように、摂理も旧約新約を土台にしているわけですから、新しい宗教ともいえるし、神様が導いてきた旧約新約ともひとまとめにした神様が導いている宗教ともいえるのではないでしょうか。摂理は危険でもなく、反社会的でもない。
「極端な(時に危険な。また反社会的な)思想を持った宗教又は団体」 これについては、違うと断言できます。 そもそもどういった行動を危険とみなすのか、整理してみると、 強盗、殺人、強奪、強姦...ではないでしょうか。 怪しい宗教だと、ツボを売ってくるとかよくありますし、多大なお金を請求するといったこともあります。 しかし、摂理は命を尊く思うところです。 鄭明析牧師の故郷、「月明洞」の野心作には、”命を愛しなさい”という言葉が刻まれている岩があるほど、摂理の教理の代表とも言えます。 なので、強盗、殺人、強奪、強姦といった犯罪は決してありません。 お金も取られるといったことは一切ありません。 献金という礼拝にお金を捧げることはありますが、金額の指定は特になく、真心を込めることが大事だと教えていただきました。 私も学生ですからお金が悲惨なほどない時があります。 そういった時は、硬貨だったとしても、綺麗に磨いて、ピカピカ✨にして捧げることもよくありました。 鄭明析牧師も貧しい生活をされてきた方ですから、私みたいなお金の無い信徒たちをとてもいたわってくださいます。【箴言3章9節】 あなたの財産と、すべての産物の初なりをもって主をあがめよ。 口語訳聖書から初なり = 最も新しいところ = 一番良いもの 神様に捧げものをするときは初なりを捧げなさいとありますが、自分の置かれた状況の中で初なりを捧げることが大事です。 だからこれを捧げればOK!みたいなことはありません。 心が大事なのです。 あと、反社会的というところは、個々人によるのかなと思います。 これは摂理だけによらず、どこの業界、どこの組織にも共通して言えるのかと思います。 結局、マナーや礼儀はその人次第です。 ただ、摂理で教えられたことですごく印象に残っているのは ”摂理の人たちは、マナーをしっかりしなさい” と教えられたことです。 摂理は決して、マナーや礼儀を軽んじることはしません。 むしろ、マナーや礼儀はわきまえるようにと教えてくださっています。 だから、摂理全体として見るなら、反社会的だとは思いません。