殉教の地 長崎
「殉教の地長崎のPR映像」を見ながら、殉教者とその後迫害の中でも信仰を守り続けた人々の姿にとても感動した。
キリスト教徒が全体の1%もいないといわれる日本の地。
しかし、ここには、切実に救いを求めて信仰を守った先祖たちの熱い義と心情が流れているんだなと思った。
キリスト教といえば、「救い」だ。
キリスト教の「救い」とは?
私たちは、自分の思いや願いだけでは救われない。
神様は聖書でこう仰った。
唯一の神様と仲保者キリスト
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」
<テモテ第一の手紙2章5節>
唯一の神様
そして、神様と人間を繋げてくれる唯一の存在が「キリスト=救い主」だと。
どういう事が「救い」なのか?
「救い」とは、永遠の世界の事まで解決してこそ「救い」だと言える。
鄭明析牧師の御言葉より
お師匠である鄭明析牧師は、そのように仰った。
人間には、「永遠の世界の救い」まで解決する事は不可能。
「救い」は、神様か神様が立てて下さった唯一の存在者キリストでしか成せない偉業である。
では、誰が自分たちを救ってくれるのか?
キリストとはだれか?
それは、いつの時代も「救い待ち望む人々」にとって一番重要な事だった。
イエスとバプテスマのヨハネについて
キリストではなかったバプテスマのヨハネ
2000年前、ナザレのイエスとバプテスマのヨハネが耳慣れない新しい福音を述べ伝え始めた時、ユダヤ教の人々は「彼らが神様が送った人なのか」がとても気になったし、その答えを知りたくてまずバプテスマのヨハネに尋ねた。
さて、ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわして、
「あなたはどなたですか」
と問わせたが、その時ヨハネが立てたあかしは、こうであった。
すなわち、彼は告白して否まず、
「わたしはキリストではない」
と告白した。
<ヨハネによる福音書1章19~20節>
ここだけ読めば、彼は正しいことを言っている。
バプテスマのヨハネは、確かにキリストではないからだ。
しかし、その後が問題だった。
バプテスマのヨハネの失敗
そこで、彼らは問うた、
「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか。」
彼は「いや、そうではない」と言った。
「では、あの預言者ですか。」
彼は「いいえ。」と答えた。
<ヨハネによる福音書1章21節>
ユダヤ人の質問「エリヤですか?」「預言者ですか?」に全て「違う」と答えている。
この何が問題だったのか?
これは、旧約聖書を知らないと分からない部分である。
旧約聖書の預言
見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。
これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。
<マラキ書4章5~6節>
これは、神様がマラキ預言者を通して仰った言葉だ。
つまり、どういう事を言っているかというと、
「キリストが来る前に、その道を備える者として預言者エリヤを遣わす」
という事だ。
預言者エリヤとは?
預言者エリヤとはどういう人物かというと、旧約時代の有名な大預言者の一人だ。
旧約時代に最も大きな人物と言われているのがモーセで、彼は神様から旧約時代の中心となる律法「十戒」を受け取っている。
そのモーセと並べて聖書に書かれているほど大きな人物がエリヤだ。
預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。
さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
<ヨハネの黙示録11章6節>
旧約時代に「天を閉じて雨を降らせないように」したのはエリヤで、アハブ王の時代エリヤが神様に祈る事で、三年半雨が降らないしるしがおこっている。(列王記上参照)
「水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打」ったのはモーセで、エジプトから脱出する時に起こした十の災いを指している。(出エジプト記参照)
つまり、エリヤは神様から離れて偶像崇拝に心が傾いたイスラエルの民を、もう一度神様にその心が向くようにした預言者なのだ。
マラキ預言者が言ったように、「父の心を子に、子の心を父に向けさせる」働きをした預言者が、エリヤだったのだ。
エリヤはすでに旧約時代に亡くなっており、その肉体も無いので、ここでマラキが言った預言の意味は、
「キリストが現れる前にエリヤと同じような使命を持った者が来る」
という事を指している。
バプテスマのヨハネについての天使の啓示
そして現れたのが、バプテスマのヨハネだ。
「バプテスマのヨハネ」が生まれる前、父ザカリヤに天使が現れてこのように告げる。
そこで御使が彼に言った、
「あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。
その子をヨハネと名づけなさい。
彼は主のみまえに大いなる者となり、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」
<ルカによる福音書1章13~17節より抜粋>
はっきりと、「ヨハネにエリヤの霊と力が共にする」と天使の託宣を受けている。
それなのに、バプテスマのヨハネはユダヤ人の質問に対して
「私はエリヤではない。」
と言ってしまうのだ。
これは、
「私は、キリストの前に来ると聖書で預言されていたエリヤではない。」
と言っているのと同様である。
「自称メシヤ」になったイエス=キリスト
バプテスマのヨハネがはっきりと
「そうだ!聖書に書いてある通り、私がエリヤで、イエスがキリストだ!!」
と証できていたら、聖書に精通していたユダヤ人たちが二人を見る目も違っていただろう。
イエスも迫害されて十字架の道に行かず、ユダヤ人たちにキリストとして迎えられていたかもしれない。
しかし、ヨハネがこのことを全否定してしまった事で、イエス様は「自称メシヤ=自分の事をキリストと言っている愚か者」としてユダヤ人に誤解され、異端視されることになるのだ。
神から出た者は栄え、人間から出た者は滅びる
聖書にはこのような聖句がある。
国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、 一同にむかって言った、
「イスラエルの諸君、あの人たちをどう扱うか、よく気をつけるがよい。
先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。
そののち、人口調査の時に、ガリラヤ人ユダが民衆を率いて反乱を起したが、この人も滅び、従った者もみな散らされてしまった。
そこで、この際、諸君に申し上げる。
あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。
その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。
まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない。」
<使徒行伝5章34~39節より抜粋>
神様から出た者なら、栄える。
神様から出ていない者なら、何もしなくても衰退していく。
ガマリエルの口を通して、神様が勧告なさった一言だ。
今の世界の状況を見れば、この結果は一目瞭然だ。
歴史の証明
バプテスマのヨハネの宗教は400年間続いたが結局衰退した。
今、全世界に福音が述べ伝えられているのはイエス=キリストの福音である。
結局、2000年経って、「歴史が、何が正しいのかを証明した」という事になる。
神様の歴史は、初めは微弱で分かりづらい。
イエス様も、イエス様が生きている当世では認められず、迫害され、異端視された。
しかし、歴史は証明した。
イエス=キリストだということを。
私たちは、「何が正しいのか」を分別する時に気を付けないといけない。
2000年前、世論でイエス様は「異端だ!」「自称メシヤだ!」と大きく叩かれた。
人々は、それを聞いて「そうなのか」と判断し、忌み嫌った。
結局、どこが正しい神様の歴史なのかは、歳月が過ぎ、何千年先には明らかになるだろう。
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