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真実を見抜く力

★氾濫する様々な情報
私はよくAmazonを利用するのだが、商品を購入する際に必ずと言っていいほど目を通すのが、カスタマーレビューだ。
最高評価の☆5つをつけた人が多ければより安心して購入でき、☆が少なければほとんどの場合買わない。
しかし、あくまでネット上の情報なので100%信用はしない。
事実、Amazonや楽天市場といった通販サイトでは、悪質な出品者(企業)が良いレビュー1件書くごとにいくらと決めて売買取引がなされているからだ。
また、有名人がブログである特定の商品を使用して良かったと紹介するケースがあるが、それもステマである可能性が高い。
ニュース報道では確認不足の間違った情報を真実かのように流すことも多々あるし、外国人のコメントの字幕テロップが実際の発言とは違っていたり、音声をつぎはぎして実際の発言とは異なる趣旨の発言にすり替えられたりもする。ニュースで道行く人にインタビューする場面をよく目にするが、実際はテレビ局の社員だったり、同じ人が別の日時に別の場面で登場したりもする。
 直近の出来事として、タイのバンコクで覚せい剤所持で日本人4人が逮捕された事件で、その中の一人の写真が、旅行で訪れていた同姓同名の別人のものであることが分かった。このような初歩的(?)なミスが実際に存在するとは驚きである。
ネットの情報やマスコミの報道には嘘やサクラや間違いが多いとわかっていながらも、実際に見聞きするとそれが正しいように錯覚してしまうことが多いのではないだろうか。
★なぜ私たちはそんなにも容易く、操作された情報に騙され、真実を見抜けず、世論に流されてしまうのか。
人間の脳が見聞きすること、情報収集する面は発達しているが、収集した情報を分別すること、正確に判断する面が発達できていないからだ。
人間は生まれたときから五感をフル稼働させてあらゆる情報を脳に貯蔵することができる。
情報を収集する力は生まれつき備わっているが、貯蔵された情報を正しく判断し、整理していく力は、自ら努力して身につけていく必要がある。
 <鄭明析牧師の箴言の御言葉>

・見るとおりに、聞くとおりにそのまま行なってしまうことが習慣になった、凝り固まった脳をほぐし、呼び覚まし、生かし、発達させなさい。

・見て聞いたとおりに行なうのではなく、「分別する脳」を使って必ず確認してから行ないなさい。

人間は見るとおり聞くとおりに判断することが楽だからついそのまま受け入れてしまいがちだ。

間違った情報を鵜呑みにして間違った判断をしたら、損害を被るのは自分自身に他ならない。

★真実を見抜くために必要な力とは
情報が溢れている現代を生きるには、分別する脳を開発しないといけない。
物事を分別し、正しく判断するためには「理性」が必要である。
「理性」とは、「論理的に考え、真理を見つけようとする性質」だと言うことができる。
 また、「理性」の反対は「衝動的」、「感情に偏っている」ことだと言える。
つまり、物事の表面だけを見て判断するのは「衝動的」であり、「感情的」、物事の内側、本質を洞察するのが「理性」である。
摂理の御言葉では、もっと考えなさい、研究しなさい、確認しなさい、脳を遊ばせるなと言われることが多い。
摂理は、マインドコントロールされて盲目的に教理を信じるというイメージをもたれているが、どこの世界よりも理性的でなければついていけない世界だ。
なぜかというと、信仰とは神様の働きと存在を「確認」し、「確信」していくことだからだ。
<ヘブル人への手紙11章1節~3節>
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
「確信」は「確認」して「確実に知ること」から来る。曖昧に知っているのでは確信が持てないのだ。
摂理の御言葉を盲目的にただ信じるのでは、すぐに限界を感じてつらくなるから存在できなくなるしかない。
摂理人であってもなくても、理性的な思考が必要なのは同じだ。
理性的でない人は、信憑性の無い情報を見聞きしても本人の感情のまま判断し、真実を追究する努力をせず、大多数の意見に流される。
そのような人がむしろマスコミにマインドコントロールされている人だと言うことができる。
私たちはいっそのこと、全能者でいらっしゃる神様にマインドコントロールされてみたいと一度は考えてみるが、実際、神様は人間をマインドコントロールすることはしない。神様は人間に「自由意志」を与えて自ら神を探し、近づいてくるようにされた。
神様が人間に自由意志を与えた理由は何だろうか。
たとえば、自分の愛する人がいるとする。その人をマインドコントロールして自分を愛するようにしても何の喜びもない。自らの意思で愛してくれてこそ甲斐があるし嬉しい。それと同じことである。
私たち人間に与えられた自由意志をただ遊ばせるのではなく、真実を見出すために理性的に用いて生きていくべき時ではないだろうか。
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