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なんで摂理で生きるのか

目次

救われて引き上げられたいから

死後の世界はどうなっているのか、摂理に会わなかったら学ぶことはできませんでした。 学んでみたらとても理知にかなっていて、ここだったら天国に行けると確信を持ったあの感覚は今でも忘れられません。 御言葉を学ぶ前は死後の世界は信じていましたが、ドラゴン〇ールのように地獄も天国もそれなりに楽しく生きていけるのだろうと思っていました(笑)。 御言葉で地獄の事も天国の事も、他の霊界のことも詳しく学んで、本気で天国に行きたいと思えるようになりました。     「地獄に行きたくない!」というよりは「天国で永遠に幸せに生きていきたい!」という思いが勝るようになり、人生に希望が出るようになりました。 引き上げられて天国に行くという人生の目的ができたことで、今生きているこの世を全力を尽くして生きていこうと意識が高くなったことも摂理に来て良かったことの一つです。 御言葉で真理を学ぶまでは、この世を良く生きるために死後の世界があると考えていましたが、学んでからは因果関係が逆転し、死後の世界、すなわち霊界で永遠に最高な幸せを享受するためにこの世を最善を尽くして生きようと考えが転換しました。 死後の世界なんて死んでみないと分からないというのが極論ですが、死んでから死後の世界があったら後悔するだろうし、摂理で信仰を持って永遠な世界のために生きることでこの世も良く生きることができるなら、信仰を持っていてメリットしかありません。     これから起こりうる出来事を信じることが信仰だと聖書にも書いてあります。
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 へブル人への手紙11章1節
最近も、信仰的な話は自分が御言葉を実践して自分で感じるしかないという話をされました。 霊的なものは言葉で説明するのには限界があるからです。 御言葉を学んでも分からないという人に説明するのはある意味、無駄なことかもしれません。 実践して、自分で感じてみて というのが一番納得する方法なのかもしれません。 自分も実践しないで頭で分かったつもりになって、教会の先輩や主に大変もどかしくさせてしまったことも多かったように思います。     天国があるかどうかを議論していても正直、死んでみないと分からないものですから、愚の骨頂です。 そのように考えた時と考えない時の変化を比べてみて、信じるかどうかを判断したほうが賢いやり方のような気がします。    

摂理が楽しいから

楽しくないと摂理にいても苦しいだけです。 永遠の世界のためとはいえ、苦行を強いられていては耐えられません。 この世でも楽しく生きられる場所、それが摂理だと感じます。     摂理には1年を通して、イベントがいくつかあります。 そのたびにみんな神様に栄光を帰するために準備するのですが、その過程も楽しいし、イベント本番でも感動的に催してくださいます。     イベントがなくても、平素の生活で同じ御言葉を聞いている兄弟たちと一緒に過ごすのはとても楽しいです。 職業や個性が違くても向かう目的地が一緒だと、心情が通じるんでしょうね。    

人生の師と会えるから

天国に行けると教えられてたとしても、人生を生きていて辛い時は当然あります。 悩みだって生じます。 そういう時、お祈りして、御言葉で答えをもらうことが非常に多いです。 考えの転換だけで終わるのではなく、実体的に根本の問題が解決していくから、御言葉が本当に不思議です。     今までも恩師と言われる先生は小中高と一人ずつ会ってきましたが、鄭明析先生は真の実践者だと肌で感じ、今では一番の恩師と言える存在です。 絶えず御言葉を送ってくださり、道を示してくださっています。 目指すべき尊敬する人物となりました。    

愛の本質を学べるから

愛について、本当に悩んでいました。 摂理に出会う前から、人同士の愛に限界を感じておりました。 神様の愛を学んでみたら、胸がすっきりするほど、愛の本質に触れることができ愛の問題が解けたのです。   ここについては、また今度詳しく書きたいと思います。    

人生の問題が解けるから

今思えば、小さい頃から悩んでいたことが、なんで生きているのだろうということ。 この問題が摂理に来て御言葉を学んで解けたのが一番うれしかったです。 経験的に何かに熱中しているものがある時は、こういった本質的な問題について考える余裕もありませんでした。 私の場合、部活に熱中していたので、中学高校の部活動をしていた時は全国制覇とか、甲子園出場というのが一番の目標、生き甲斐として生活していたように思えます。     しかし、部活が終わると、決まって同じ悩みにぶち当たっていたのです。 受験勉強とかしていると、進路のことを当然考えるわけで、就職したらこんな人生を歩みたいとか考えているうちに老後のことも考えて、ついには親の介護のこととか、自分の死の時とかも考えるような受験生でした。 考えても仕方ない問題だと思っていたのですが、心のどこかで諦めきれない思いもあったのは確実です。 だから、自己啓発本やビジネス本を読み漁った時期もあったのだと思います。 受験期に勉強しなくてはいけないのに、なぜか本にハマっていた原因が今解けました。     まとめ 結論は、摂理に来て良かったということです。 いろいろ反対してくる家族や友人もいますが、冷静になって考えてみると良いことしかないんですよね。 苦しいこともあるとは思いますが、その苦しさってだいたい摂理に来なくても味わうような苦しみばかりのような気がします。     お酒、たばこ、異性に関しては厳しいので、そこにつまずく人もいるとは聞きますが、 最近では信仰を持っていなくても、この3つに関して注意している人も身の回りに多くなってきました。 会社に勤めてからこういう人もいるんだなと実感している次第でございます。     あと、先生や御言葉は良いけど、兄弟につまずいたという人も中にはいると聞いたことがあります。 私もそういう時期はありました。 でも、御言葉は絶対に正しいと確信していたので、絶対に出ていかないと覚悟して人を避けながら信仰生活を送っていました。 御言葉から離れさえしなければ、人につまずいたこともだんだんと解決できるようになってきました。     だから、兄弟につまずいて摂理を出ていってしまった人は出ていくまでしなくても大丈夫だと思います。 摂理と先生だけ信じて、御言葉だけ聞いていても個人的にはオッケーだと思っております。 いずれ、御言葉を聞いて入れば、その問題は解決の方向に向かう確信があるからです。    

今日のひとこと

高校3年生の時、年越しを特別なことをしたいと思って、考えているうちにカウントダウンが始まって、とっさに逆立ちをして年越ししたことを思い出しました。おれ、なにやってたんだろう。。。
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