『イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った。「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。』 (ヨハネによる福音書9章1節、7節~8節) このように、イエス様は神様の愛によって、生まれつき目が見えないこじき暮らしをするしかなかった方を、目が見えるように癒してくださり、正常な生活ができるように導いて下さいました。 また、ある男性が若い頃、一人のこじきの少年を家に連れて帰り、介抱して、自分で生活ができるように就職口まで探してあげて、一人立ちできるようにしてあげたという事実があります。 やはり、その方も、神様の偏り見ない愛を人々に知ってもらいたく、一生懸命愛を伝えていた方でした。その方が家に帰る途中、真っ暗な夜道で前も見えないくらいのときに、足元でやわらかく「ぐにゃっ」とする感覚が有り、「あ。蛇を踏んだのか?」と一瞬思って、思わず後ろに座り込んでしまったそうです。それで、恐る恐る光を当ててみたら、なんと、幼い少年が座ってうずくまっていたそうです。その方はとても驚かれました。普段はそんな道端に人がうずくまっていることは到底有り得ないところであり、また夜も夜だったからです。 その方はその少年を見てどうしたでしょうか。 手を掴んで起してあげ、優しく、話しかけられました。 「あなたは誰なの? 一体なぜここにいるの?」 その子が話すには、「両親がいません。」 とのことでした。 その少年が話すには、父親は亡くなり、母親は自分と妹を捨てて再婚してしまった。自分と妹は乞食のようにさ迷い歩き、食べ物を乞いながら生きてきたが、自分の妹は飯炊きとしてある家に連れて得怒れて、自分だけが取り残されてしまった。自分は男だからその家には連れて行かれなかった。それで自分1人であてもなくふらふらと放浪しているうちに、結局ここまできてしまったということだった。妹がどこに連れて行かれたのか知るすべがないと言って泣いていた。あまりにも悲しい話しだった。少年は15歳、妹は12歳だという。 少年に出会った男性は、少年の身体を水で洗い、着替えさせました。また自分の家に連れて帰り、親にいろいろと言われながらも数日間その子を泊めてあげ、ある食堂に就職させて、しっかり暮らせるようにしてあげました。 皆さん、この男性のように、見ず知らずの貧しい少年に出会ったら、その少年を介抱して、就職口まで見つけて一人立ちできるようにしてあげられますか? 頭ではできるよ! と思うかもしれませんが、実際現実を見ると、頭では分かるし、心でも良心がよぎるけど・・・ という状況ではないでしょうか? 実際は、難しいですよね。 この少年を介抱したある男の方は、幼き日の鄭明析牧師でした。 やはり、キリストの精神と愛によって育った鄭明析牧師は、偏り見ない愛で少年を正しく生きられるようにされました。 ある時は、父親のように、あるときは母親のように、またある時は友人のように、あるときは僕のように、ある時は恋人のように、接してくださる方が、キリストと呼ばれる方のもつ品性だと言われています。 鄭明析牧師はそのような品性を学び、磨かれ、今に至るまで実践されて来ています。 真実の母の姿、万人の母の姿を、学ぶことができる暖かいエピソードです^^]]>
真実の母の姿
2015.06.16
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