今日は初めて日本に摂理の御言葉が入った記念日(^^)/
1985年、当時の留学生によって、日本に広まっていきました。
この出来事があって今自分が摂理にいて、周りの兄弟たちもいると考えたら感極まります。
信仰を持つ前は、宗教に対してのイメージは最悪でした。
ニュースの影響が強いのですが、宗教絡みのニュースはマイナスのことが目立って流れてきます。
しかも、百歩譲っても理解できない犯罪を犯すからなおさらイメージはガタ落ちでした。
マスコミも必死で世の中の反響を得られるようにニュースを流さないといけませんから、悪い側面ばかりを切り取って流してるんだろうなと思うところもありました。
とはいえ、宗教に対しては決してイメージは良くなりませんでした。
そんな自分が信仰を持つなんて思いもよらなかったし、奇跡としか思えません。
摂理では初めから信仰を持っていた人は少ないように思えます。
むしろ、宗教に対しての抵抗感、はたまた無関心の人が多い中で、どうして摂理に導かれてきたのか、いささか不思議で仕方ありません。
ましてや、宗教勧誘なんてありえない!と思っていましたから。
ただ、摂理でおこなっていることは勧誘ではなく、伝道なのです。
勧誘と伝道、似ているようで全く次元の異なる行動です。
目次
伝道と勧誘の違い
私の持論において、二つの言葉の意味に明確な定義をつけてみました
伝道 = 自分の利益を顧みず、人生の道を伝える。また、その過程や段階。
勧誘 = 自分の利益が伴い、自身のコミュニティや所属へ誘うこと。
自分のコミュニティに呼ぶという行動自体は一緒に思えるかもしれません。
しかしながら、どういう心持ちでそのような行動をとっているのかで意味合いはかなり変わってきます。
摂理ではまちがいなく、勧誘ではなく伝道をしています。
では、どのようにして摂理の人は伝道されてきたのか。
今まで聞いた話の範囲でまとめてみました。
路傍(街中での出会い)
ちゃんとした統計はとっていないので正確ではないですが、なんだかんだで一番多いのが路傍での出会いかもしれません。
学校、駅、商店街、カフェ、グラウンド、スポーツジム…
本当にいろんなところで伝道されてきた事例がたくさんあります。
もしかしたら、あの時出会ったあの人が摂理の人かもしれません。
何の変哲もない出会いから人生の道を知ることになるなんて、なんだかロマンを感じませんか。
新歓時期
新歓時期に出会って、伝道されていく人も多い印象を受けます。
私もその一人。
自分を成長させたいと思っていた矢先に御言葉を教えてもらい、自分を作ることができたので非常に嬉しく学ばせていただいていました。
しかも御言葉が本物だと感じるしかなく感動さえしていました。
新歓時期は人生のターニングポイントであり、自己成長意欲が高まることで伝道されていく一連の流れがあるのでしょうかね。
スポーツチーム
摂理ではサッカーやバレーなど、スポーツチームを作っているところもあります。
活動目的はスポーツを通して神様に栄光を帰し、人生について悟るため。
また、スポーツは自分の本性が出やすいので、自分を見つめ直して自己成長のために参加する人も多くいます。
排他的にならないように、誰でも参加できるようなオープンな姿勢で活動しており、摂理以外の人とも一緒に汗を流します。
ここで仲良くなったことをきっかけに伝道されていく事例もよく聞きます。
家族
家族の誰かが伝道されて、その人から伝え聞いて親や兄弟が伝道されていくケースもよくあります。
親は子が信仰を持つことを嫌がる傾向がありますが、それは子が心配だから。
信仰を持つことで、お金がとられないか、不法に走らないのか、心配なのです。
だけど摂理には一切そういったことがありません。
摂理に導かれて本当の幸せを感じている我が子の姿を見て、親も伝道されていくプロセスを幾度か見てきました。
家族が伝道されていく経緯を聞きますが、どれも本当に感動的です。
友達
仲の良かった友達から伝道されていく場合もあります。
信頼関係が築きあがっている状態だから、偏見もなく、フラットな見方で御言葉を学ぶから伝道されていきやすいんでしょうね。
言い方を変えれば、偏見がない人が聞いても伝道されるということは、御言葉に矛盾がなく納得できるような内容になっていると証明しているような感じもします。
インターネット
最近ではインターネットで知り合って伝道されていくケースも多いようです。
ちょっと前までは、インターネット上で知り合った人と直接出会うなんて恐ろしく思えたものですが、このご時世では至って当たり前のこととなりました。
TwitterやFacebook等のSNSで知り合った友人が多いという人は周りにもよくいます。
中には危なっかしい繋がりもあるので気を付けてくださいね。
趣味が同じだったり、価値観がある程度合致した人でないと直接会うことも難しいので、インターネットを通じて摂理の人と出会えた人には御心、神様の計画があるとしか思えません。
まとめ
いかがでしたか。
私の周りにはこのようなことがきっかけで伝道されてきた人が多かったのですが、もちろん他にもあります。
中には会社の後輩に伝道されてきたとか、ストリートライブをしてたら伝道されたとか、面白い出会いもよく聞きます。
それぞれのドラマがあって摂理に導かれた人たち。
その経緯を聞くと本当に感動します。
伝道は強制ではありません。
こういうものがあるよ♪って最初は御言葉を紹介されてきたのは間違いありませんが、結局最終的に学ぶかどうか、信仰を持つかどうかの選択は本人の意志にゆだねています。
本人の自由意志を尊重する世界、それが摂理。
伝道する側と伝道される側の双方の理解があって初めて御言葉を学べるし、なによりも御心がなければ信じることもできません。
だから、誤解してほしくないのは、決して強制されて伝道されたわけではないということ。
摂理に来た人は自らの意志で信仰を持つ人生を選びました。
そこに
人生の希望があり、目的があり、意味があると確信したからなんだと思います。
定期的に自分自身に問いかけることがあります。
「俺はなんで摂理で生きているのか」と。
しばらく考え、祈ってみると、決まって返ってくる答えが
「人生を救ってくださった主に恩返ししたいから」
これに尽きるのです。]]>