摂理で御言葉を学んで生きるようになって、
「幸せ」をよく感じます。
人を通して、万物を通して働かれる神様の息吹を感じられるようになったからかな、
と個人的には思っていますが、これが、本来の人間の感覚の1つなのかもしれません^^
雨が降っても、風が吹いても、雪が降っても、
そこには全て「神様の御心」があるという事。
みかん1個、お水一杯、おにぎり1つでも、
人を通して届けられる時「神様の愛」があるという事を学びます。
<幸せ>は「感じるとおりに」来る。
-鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師の御言葉より-
神様からだな、と思う所以には、
人間では成しえない事が本当に多いからです。
天気はもちろん、
「これ欲しいな」「これイイナ」と、ふと思った私の心を
誰にも伝えていないのに、自分の手元に届いたりするのです。
私の考えを、正確に把握できるのは神様だけでしょう?^^
不思議ですが、本当によく起こるようになりました。
人間は個性があるので、幸せを感じる内容や度合いもさまざまでしょう。
しかし、それら全てをご存知な神様は、
本人が分かるように、感じられるように「幸せ」を届けて下さいます(*´▽`*)♡
それには「時」があります。
すぐ欲しいと思っても、すぐ来ない事もあれば、
まだまだ先じゃないと手に入らないかな?と思っていたら、すぐ届いたり。
その「時」は、後から考えると、絶妙なタイミングなのです( *´艸`)本当に驚きます!!
全能者はその時その時、<万物>または<人>を使役者として行なわれる。
だから人々は「自然の現象だ。人が行なった」と言うようになる。
<見えるもの>だけを見て判断しないで、
<見えるものを動かす全能でいらっしゃる神様>を考えなさい。
神様は「その時その時、ふさわしい万物や人」を使って行なわれる。
-鄭鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師の御言葉より-
聖三位は肉眼には見えないので、
届けてくれた人や、万物の自然現象だと思ってしまいがちですが、
その人、その人が感じるように、感動するように、
その人にしか分からないような事を通して届く事を考えると、
単なる自然現象だけでは考えにくくなりませんか?
交通事故から一瞬の差で免れた、一瞬の差で電車に乗り合わせてた、
など、「一瞬」的な事は、人間でも達成してあげる事が難しいので、
「神様」を感じやすい人も多いかもしれません。
自分ではどうにもならない様事が解決されたり、
瀕死の状態から救われると、神様の力を感じずにはいられませんよね?
しかし、そういう時だけ、神様が側にいらっしゃる訳ではありません^^
「いつもそばにいらっしゃいます」
これも、
<幸せ>は「感じるとおりに」来る。
-鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師の御言葉より-
御言葉の通りです。
今、生きられている事、
食べる物がある事、
ささやかな事からも、
<幸せ>を下さる主に
<幸せな世界>を下さる主に感謝します~
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