最近引っ越し後でバタバタしていたが、ようやく落ち着いてきた。
その中であった出来事を一つ。
おじゃったもんせー
九州に引っ越してきて、鹿児島の知り合いから
「おじゃったもんせ~」
というLINEが来た。
全く聞いたことがない言葉だったが、とりあえず状況と会話の流れから
「いらっしゃいませ~」「ようこそ~」「おいでやす~」
的な意味であろうことは分かった。
(実際調べてみると「おじゃったもんせ」は鹿児島弁で「ようこそいらっしゃいました」という意味だそう)
そこで不思議だったのが、
全く聞いたことがない単語なのに、意味が分かったということ。
この状況と流れと、発言の雰囲気から「ふざけんな、帰れ」とは言われていないことは分かった。
恐らく
「タッカラプト、ポッポルンガ、プピリットパロ!」
と送られてきても
「ああ、ナメック語で、『いらっしゃい、ようこそ!』という意味だろうな」
と思ったと思う。
(ちなみに「タッカラプト、ポッポルンガ、プピリットパロ!」はナメック語で「いでよ神龍」なのでお間違えなく)
全く聞いたことがない単語なのに、意味が通じていることが不思議だった。
この時<言葉>というものをもう一度考えた。
ボディランゲージ
私たちは実際様々なものを用いてコミュニケーションをとっている。
<言葉>を多用するが、その中でも
「話す表情」「抑揚」「強弱」「声の大小」「ジェスチャー」「視線」など様々な要素がある。
コミュニケーションの中で単純に「言葉」が占める割合は全体の2割だという研究結果もある。
イメージとしては、絵文字やなんの記号もつけないで、ただ「ありがとう」とメールを送るようなものだ。
同じ「ありがとう」でも、表情やジェスチャー、言い方によって全然違う意味になる。
もし知り合いから一行「ありがとう」というLINEやメールが来たら、到底感謝されているようには思えない。
むしろ「…怒ってる??」と返したくなる。笑
人は多くのものを通して自分の意志や思いを伝えている。
「おじゃったもんせー」も、言葉としては全く知らなかったが、意味は通じたように、
私たちがコミュニケーションをとる上で、「言葉」の占める割合は多くはないようだ。
しかし「いらっしゃい」のような簡単なことは、それほど問題はないが、
もっと深い自分の考えや抽象的な概念を伝えるとなると、どうしても<言葉>が必要になる。
外国語で外国人と話す時も、道案内などはできても、その人の人生観や深いことについて話すためには、どうしても<言葉>もまた必要になってくる。
聖書には以下のように書かれている。
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。
馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。」
ヤコブの手紙3章2~4節
「言葉の上であやまちのない人は完全な人だ」という一文が非常に印象的だ。
<言葉>にも気を付け、
また<言葉以外の言葉>にもまた気を付け、
自分を制することができる人になりたいものだ。
コメント
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余談ですが
言わなくても通じるという文化を
「ハイコンテクスト」と言います。
そして、日本は世界一
ハイコンテクストな国だそうです。
だからこそ、お・も・て・な・しが
実現しているようです。
日本人てすごいですよね(・ω・)b
ハイコンテクスト!
日本には「みなまで言うな」という文化がありますよね。
ワールドクラスのハイコンテクスト☆彡
今度は岩手におでってくなんせー!
ん?
「今度は岩手におでんをくれ?」
「はじめに言(ことば)があった、言(ことば)は神であった」
という聖句を思い出しました。この「言(ことば)」とは、なんであったか、と思いをめぐらせてみる
「言葉」とはただの音の羅列ではないことが感じられますね。
深いですね~
勉強になります‼(*^^*)
更新したらまた見て下さいねー(‘ω’)ノ