宗教と私 2016 10/08 未分類 2016.10.08 目次宗教が嫌いだった私 私は、小さい時から宗教が嫌いでした。 実家の宗教が、とある宗派の仏教でした。 仏教には、いくつかの宗派がありますが、おおよそ、仏像や仏壇に手を合わせて経典のお経を唱えるというものが多いようです。 私の実家や親戚でも、必ず仏壇に手を合わせてお祈りしています。 朝に夕にと、何かある度ごとに手を合わせています。 すごいなぁと思います。 幼い子供の時には、よくわかっていませんでしたが、物心ついた小学生3、4年生くらいになってくると、なんでこんな仏壇に手を合わせているのかと、その理由が知りたくなりました。 親から言われることもあり、ワケも分からずお経を唱えていたことを覚えています。 また、仏様という面前での礼儀もあるというので、正座を続けなければなりませんでした。 私、正座は嫌いだったんです。 意味がわからないお経に加えて、足もしびれて一体なんなんだということが続き、私は次第に家の宗教から遠ざかっていくようになりましたね。 宗教というものはよくわからない、と幼い頃に感じ、宗教は嫌だ、私は宗教には関わらないようにしようと考えるようになりました。 なぜ宗教というと、マイナスなイメージを持つのか 宗教というと、だいたいあまり良くないイメージを持たれる方が多いのではと思います。 私も、実家のこともあり、宗教はもういい、私は宗教は関係ないと思っていました。 また、ニュースなどでよく、宗教に絡んで、様々な犯罪に結びついた報道が多かったということもあると思います。2000年前後の10年間くらいは、様々な宗教団体がテレビやメディアで取り上げられました。いずれも、報道の内容は様々でしたが、宗教団体という言葉そのものに、良くないイメージが先行する契機となってしまった時期だと考えます。 生活と宗教 実際、私たちは生活の中で、宗教と関係がない生活を送っているのでしょうか? お墓参りや、お彼岸、忘年会、初詣、おみくじ、冠婚葬祭など、周りを見渡してみると、いろんなところで宗教の端々が見受けられませんか? 宗教は、良い面もあるんです。 と言うよりも、本来は良いものなんです。 人間の精神、徳を高めるためにあるものが宗教であり、人の生死の意味を見出し、人生をどのように生きれば甲斐がある人生を生きることができるのか、問い続けるものです。 『人間はいかにして幸せに生きていくのか。』 この一つのテーマを、様々な人たちの人生をかけて研究し取り組んでいった結果が、宗教としてまとめられていったのではないでしょうか。 なので、唯一の答えを導き出すことは大変難しいことです。 しかし、多くの人が幸せになるための催しや時期というものは、ある程度決まっていることがありますので、人間の幸せのために、宗派は違えど、宗教という教えが今でも生活の中に存続しているのだと考えます。 宗教を見る目 私たちは、「宗教」と一言聞くと、自分の中にあるイメージと結びつけて「宗教」を固定概念で見てしまいがちです。 怪しいんじゃないか?危ないんじゃないか? と、まず疑ってかかります。 疑ってかかると、客観的に真偽を見抜くことが難しくなります。 赤色のメガネをかけて景色を見たら、白色のものも赤色に見えますよね。 これと同じことです。 大切なのは、その「宗教」と言われている団体、グループ、機関の内容が、どういう内容なのかを確認することです。 確認のポイントは3つです。 ・周囲の人の判断ではなく、自分の目と耳で、自分が確認することです。 ・どのような方針で、どのような活動(行動)をしているのか、どういう結果が生まれているのかを、照らし合わせることです。 ・リーダーが自らの権威を立てようとしているのか、リーダーが周りに仕えようとしているのか、確認することです。 この3つをポイントに確認してみるだけでも、その「宗教」と呼ばれている団体やグループが、怪しいのか、危ないのか、正しく行なっているのか、確認できると思います。 自分で正しく確認できる目を持つことが重要なことです。 まとめ 私は、初めから上記のようなことを考えていたわけではありません。 摂理の教会に通わせていただくようになってから、宗教とはなんなのか、人の真の生き方とはなんなのか、人間がなぜ生きているのか、なぜ犯罪は無くならないのか、様々に考えるようになりました。 考える材料は、鄭明析牧師が伝えてくださる御言葉と、御言葉を基にした実践の結果です。 ぜひ、このブログを読んでくださった多くの方が、正しい確認の基に、「宗教」というものをハッキリと確かめてみられることを願ってやみません。 キリスト教福音宣教会公式ホームページ コミュニティサイト出会いと対話ホームページ ランキング参加中☆応援よろしくお願いします^ ^ にほんブログ村 ]]>