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自分の考えを捨てる…ということ。

よく摂理では
「自分の考えを捨てなさい」
と言われます。

えー、それって皆が皆
同質化しちゃうんじゃないの?!

と思ってました、かつての私^^;
その時点で摂理に来てから数年経ってましたけど。
なんだか納得いってませんでした。
わかってるふりして過ごしてました。
外面だけはいいので^^;

でも…蓋を開けてみると違うんですよね。
同質化するどころか、個性が際立っていく。
昨日のブログとも通じるところがありますが、
個性は皆、バラバラ。
摂理のみならず、世界中73億人探したって、
誰一人として同じ人はいません。
死んだ人を含めても、です。

同じ御言葉を聴いても、
「これ、やってみよう!」とか
「感動して泣いちゃった」とか
「あ~刺さったわ」とか、バラバラ。
覚えている部分さえ違ったりもします^^;

そう。個性がある限り、
自分の考えを抜いたところで
同じになることはありません。

では、どうして自分の考えを捨てなさいと言われるのか。

それには、
・人間は<考えと行動>によって「運命」が変わるから
・神様の考えでやると、もっと理想的に成せるから
・自分の考えだと思っていても、
サタン(悪魔)に惑わされていることがあるから
などの理由があります。

 

「神様の考えを受け入れる」という
守るべきことはたった一つなのですが、
やってみると守備範囲が広すぎて
すべてを守るのは本当に大変です。
自分の生き方の癖もあるから、余計に難しいです。
正直無理と思います。
窮屈に思うこともぶっちゃけあります。

でも、摂理では神様の心情を慮り、
難しくても苦しくても
実践しようともがく人が多いです。

神様の心情というのは…
どうして神様が繰り返し繰り返し
御言葉を伝えてくださっているのかというと、
自分に対して切っ先を突きつけて、
どうしてやらないのかと責めているのではないんです。
間違った道に行かないように、罪を犯さないように
罪を犯してしまったのなら神様から離れてしまわないようにと
ただただ神様が「愛であなた(人間)を守るため」に、
「たくさんの祝福を与えたいから」
おっしゃっていることなんですね。

 

もちろん、わかっていてもできないときがあって、
私は最近こういう状態でした。
変わるきっかけもつかめずに
どんどん落ちていく自分を傍観している感じでした。

でも、今日の御言葉を聴いて、
やっと自分の考えから少し
抜け出してきたように思います。

<自分の肉>は「自分の考え」に似て、
その考えどおりに行ないます。
愛する対象より、夫婦より、
性格がもっと似て、生きていきます。
<肉体>は「考え実相体」です。

<考えを実践すること>が「考えの目的と願い」だから、
自分の考えを捨てて「主の考え」をもって
従いなさいと言ったのです。
そうすれば<自分の考え>が「主の考え」になり、
<自分の肉体>も「主の考え」に似て、
その考えどおりに行なうようになり、
<主の考えを実践すること>が
「考えの目的と願い」になります。

<2016年10月30日 鄭明析牧師の主日の御言葉
「<考え>が完全でなければ、<肉>は無用のものだ。」より>

もらったなら抜かなければならない。
各自<よい神様の御言葉と考え>をもらったから、
<自分の悪い性格、癖、考え>を抜きなさい。
そうしてこそ「もらったもの」と混ざらない。

鄭明析牧師の明け方の御言葉より@出会いと対話

 

「できない」という自分の考えを抜いて、
今日から、今からやってみます。
何度でも立ち上がって、
最後まで行くのを待っている主だから。

いつも力を下さる神様に感謝します。

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