今日は神様との位置関係はどうなのかと考える御言葉をくださいました。
神様がどんなに良い方だとしても、私自身が神様と近くにしているかどうかにかかっています。
どんなに良いものでも遠くにあったら、近くてまずまずのモノを選ぶのだとおっしゃいました。
自分自身が、自分自身の考え・判断でそのように考えてはいけません。
近くにして下さっているのに自らが遠くに行ったかのように感じてしまうのです。
<人>も自分が暮らす家から「遠くにある店」より
「近くにある店」にもっと行くし、好む。
よくても遠ければ、位置上よくない。
これと同じく、<全ての存在物>もそうだ。
<水田や畑>も家と近くあってこそ門前沃田(もんぜんよくでん) であるように、
中心にあるか、目に見えるか、手に届くか、体に届くか、近くあってこそよい。
と教えてくださいました。
門前沃田(もんぜんよくでん)とは・・・
家の前の肥沃な水田のことであり、家から遠ければいい水田だとしても・・・という意味です。
今日はこの御言葉をとおして、過去に伝えてくださった御言葉を思い出しましたので、
最後に紹介したいと思います。
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[御言葉]
鄭明析牧師
[本 文]
詩篇49篇20節
『とうときなかにありて悟らざる人は滅びうする獣のごとし。』(文語訳)
『人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。』(新改訳)
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ハレルヤ!
永遠でいらっしゃる聖なる父神様の愛と御子の平安が満ちることを祈ります。
悟って見てください。悟って見てください。悟って見たら、以前と「考え」が変わります。
<クムガン山(金剛山) >がいくら美しくよくても、<自分の前にある山>ほどにも恩恵を与えることはできません。<前にある山>は毎日「いい空気」を与え、「散策」ができるようにしてくれます。<土地>も家から近くあってこそ、「門前沃田(家の前の肥沃な水田) 」です。「門前沃田(家の前の肥沃な水田)」は、家の近くにある肥沃な水田であり、家から遠ければ、「いい水田」にはなれるけれども、「門前沃田(家の前の肥沃な水田)」ではありません。
このように自分と近いものが「自分にとってもっと宝」です。自分と近くあってこそ、自分にとって一番価値があり、貴重です。
だから「自分自身」が価値があり貴重だということを悟らなければなりません。このように自分の近くに来て、働かれる神様と聖霊様と御子を深く悟ることを願います。
悟ることが「宝」です。真実に悟ってこそ、「主」に従って「命の道」に行くようになります。 悟れば、「認識」が変わり、「自分の無知」を慨嘆し、嘆き、悔い改めます。また、さっそく「実践」し、不可能なことも心を尽くして行なって可能にします。悟れば、躊躇せず、ためらわず、もたもたせずに続けて行ないます。
悟りは、御言葉と聖霊を中心にして悟ってこそ正しく悟るから、御言葉と聖霊がどれほど貴重なのか、悟って慕うことを願います。
悟る人が栄えるから、悟るためにもっと祈って悟り、分かるということが充満した人生になることを祈ります。
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悟ると言うことはどういことでしょうか?
悟った時にこそわかることがあります。
「いつまでもあると思うな親と金」と言い、親とお金の大事さを教えてくれますが・・・
親・お金と違い、神様はいつまでも共にして下さいます。
ただ、私たちが悟って近くしているかどうかによって、変わるのです。
そして、思い出してみてください。
親などに始めてお小遣いをもらった時は・・・
100円玉1枚だったとしても、どんなにうれしかったでしょうか?
それがいつの間にか?親への感謝しなくなったのではないでしょうか?
神様を悟って、ついていくことの価値は、
一番最初にお小遣いをもらった時よりもはるかに上回るもので、
その感謝は尽きることはありません。
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