僕はいつも摂理のコミュニティサイトを活用しながら自分自身を省みる機会を得ているのですが、その中の一つの記事を紹介します☆
僕はとても金遣いが荒い人でした…
それはなぜだったのか、その価値を分かっていなかったからだと気づきました…
記事の中には「軽く手元に入ってきたお金だとしても、私たちの意識の中でそれを重く変えることができなければならないのである。」とあります。
本当にその通りです!
お金でなくとも自分が得たモノを無価値に扱ってしまうことってあると思うんですよね、たとえば100均で買ってきたモノとか…
使えなくなったらすぐに捨ててしまう…
自分が得たモノの価値を深く考えて意識を変えて見ることで、そのモノの真の価値を分かって接することができます。
このことはモノに限った話ではなくて行ないに関しても言えます。
聖書を見てみると、
マルコによる福音書12章41~44節
41)イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。42)ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。43)そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。44)みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
とあります。
イエス様はひとりの貧しいやもめの行ないの価値を分かっていました。
見た目は小さい行ないに見えたとしても、その行ないの奥にある心(その人がどういう意識で行なったのか)を見て、その行ないの価値を弟子たちに教えました。
この記事を書きながら摂理の先生のあめ玉一つを握りしめて走って持って帰った話が思い出されました。
先生はどのような心であめ玉一つを握りしめて走って持って帰って来られたのだろうか?深く考えてみると胸が熱くなります!
モノにしても、行ないにしても、深く考えて見て、その真の価値を分かって生きられるようにしたいものです!!
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